第84話:身体が覚えている
退院から三日目の朝。
盆栽棚に水をやり終えた頃、扉の外でセナの声がした。
「師匠、入っていい?」
「うん」
白衣の代わりに、今日は薄手のパーカーを羽織っている。手にはタブレットではなく、ペットボトルの水と、財布。
「散歩、行こう。リハビリ」
「リハビリ?」
「身体は二週間動かしてないから、街の段差とか人混みに慣らす必要あるって、お医者さんが言ってた」
俺は首を回した。
昨日も一昨日も、寮の中だけ動いていた。確かに、廊下を歩いた感覚と、外の路面を踏む感覚は、たぶん違う。
「分かった。何か持っていくか」
「いつもの装備は無し。ただの散歩だから」
セナが少しだけ笑った。
俺は薄手のパーカーを羽織り、玄関の鍵を掴んだ。
寮を出る時、アーサーが廊下の壁にもたれて立っていた。視線を合わせ、頷きだけを返してくる。距離を取って後ろから付いてくる、というサインだった。
◇
学園敷地の外に出ると、空は薄曇りだった。
九月の終わり頃の空気だ、と気付く。
いつ頃の季節か、誰に教わったわけでもないのに、皮膚の感覚で割り出した。
学園都市の中心部から少し外れた、ビル群の影に挟まれた古い商店街。再開発から取り残された一画らしい。
パン屋がオーブンを温める匂い。八百屋のおばさんが朝採れの大根を並べている。
どれも、初めて来た街の朝の風景だった。
……ような気がする。
「お腹空いてない? パン屋さん寄ろうか」
「いい」
「即答」
セナが苦笑する。
俺は前方の人通りを目で追っていた。
午前八時を過ぎたばかりの商店街は、買い物客と通勤客が混ざる中途半端な時間帯だ。
人の流れに、規則性のない揺らぎがいくつかある。
ほとんどは、ただ歩いている。
ただ、その中に一つだけ、流れに対して微妙に角度がずれているものがあった。
◇
歩道を進む。
俺の左斜め後ろ、距離およそ三メートル。
歩幅が、こちらに合っている。
俺がペースを落とせば、相手も落ちる。
俺がセナと喋れば、相手の歩行音もわずかに遅れる。
雑踏の中の自然な揺らぎとは違う、対象を持った歩き方だ。
頭で考える前に、俺の指がセナのパーカーの袖を軽く引いていた。
歩道の壁側へ、半歩。
壁との距離を縮めることで、後ろから近づく相手の射線を一本減らす動きだ。
……射線。
なぜ俺は今、そんな言葉を使った。
散歩の途中で、街の歩道に、射線。
「師匠?」
「……ちょっと、肩が冷えた」
言い訳が、口から勝手に出た。
セナはそれ以上聞かなかった。だが、彼女の右手はもうタブレットを取り出していた。
数秒後、すれ違うようにして、左斜め後ろの男が俺たちを追い抜いた。
平凡な服装。年齢は四十代。視線は前方に固定されている。
ただ、俺の脇を通る瞬間、男の歩行リズムが半拍だけ崩れ、視線がほんのわずかに左へ流れた。
なぜ俺が、すれ違いざまの他人の歩幅と視線を秒以下で測っているのか、自分でも分からない。
だが、身体が勝手に拾った。
男はそのまま角を曲がり、消えた。
◇
歩を止めて、息を整える。
肺が、こんなに早く酸素を切らすとは思わなかった。瞬発的に集中したら、一呼吸ぶんで足りなくなる。
「セナ」
「うん」
「今の人、変だった」
「分かってる。田中さんに送った」
セナがタブレットを覗き込む。表情が、少しだけ硬くなった。
「……アラート、すぐ返ってきた。あの人、田中さんの偵察名簿に載ってるって。黒幕残党の調査員」
「俺、何かしたか」
「何もしてない。でも師匠の身体だけ、まだプロのまま」
俺は自分の右手を見た。
さっき、セナの袖を引いた手だ。
言葉より早く、勝手に動いた手。
知らないうちに、誰かを守れる手だったらしい。
悪い気はしなかった。
「帰る?」
「いや、もう少し歩く」
俺は答えた。
逃げる動きは、たぶん、今は良くない。相手にもう一度確かめる材料を渡してしまう。
ここから先は普通の散歩のように見せて、寮へ戻るルートを少しだけ変える。
頭で組み立てたわけではない。考えるより先に、喉のあたりから答えだけが滑り出てきた。
セナがその指示を、特に質問もせずに飲み込んだ。
◇
商店街を抜けた頃、ポケットの中で電話が震えた。
通話に出る。
『田中です。先ほどの男、確保せず追尾に切り替えました。彼を生かしておけば、上の連絡網が見える』
「追ってるのは誰だ」
『うちの追跡班が二名と、商店街を抜けたところからアーサーが合流しています。貴女の護衛は別班に切り替え済みです』
「分かった。こっちは何かするのか」
『今日は何も。これまで通り、散歩を続けてください。彼女の身体が反応した、その情報だけで十分です』
通話を切る。
セナが横で、少しだけ小さくなって歩いていた。
「ねえ、師匠」
「うん」
「怖くなかった?」
「……たぶん、怖かった。今ごろ、心臓がうるさい」
言ってから、自分でも驚いた。
「怖い」という単語が、自然に口から出た。
戦場の語彙ではなかった。素直な、自分の感想だった。
「師匠、今ちょっとだけ、若い人ぽかった」
「そうか」
「動き方は前のままなんだけど、声だけはたまに、若い」
セナが小さく笑う。
俺もつられて、口の端だけ動かした。
◇
寮の玄関が見えた頃、空がほんの少しだけ明るくなった。
薄曇りの隙間から、白い光が落ちてきている。
俺は盆栽棚のことを考えていた。
戻ったら、もう一度、葉の表面の埃を確かめよう。
そういう順番だけは、今の俺にもちゃんと分かる。
「ありがとう、ついて来てくれて」
「いつでも」
セナが頷いた。
俺は手のひらを、もう一度握って、開いた。
まだ熱い。




