第83話:退院、新生活
退院当日の朝は、空が高かった。
病院の正面玄関を出た瞬間、二週間ぶりの外気が肺を通った。エアコンの空気と違う、湿気と排気と植物の匂いが混ざった本物の風だ。
車寄せに、黒い四駆が一台止まっている。
運転席から降りてきたのは、長身の金髪男だった。
「お迎えに上がりました」
アーサー。
名前は知っている。何度も会った、と聞かされている。
だが、彼を見ても、過去の何かが思い出せるわけではない。
ただ、彼の動きを見るたびに、俺の身体が「この男なら背中を預けて大丈夫だ」と勝手に判断する。それだけが、俺と彼を繋ぐ手がかりだった。
「ありがとう」
俺は短く返した。アーサーは深く頷き、後部座席のドアを開けた。
車内には、セナが先に座っていた。タブレット片手に、何かのソフトを動かしている。
「師匠、おかえり」
「うん」
俺は車に乗り込んだ。シートベルトの肩紐が首の近くを擦った。前に乗った人間の体格に合わせて伸ばしたままなのだろう。今の俺の鎖骨では、上を通る位置が高すぎた。
「昨日のテスト配信、登録者がさらに伸びたよ。キララさんが慎重派でね、まずは様子見の試運転にして、来週から本格配信に切り替えるって決めた」
セナがタブレットの画面を見せかけて、すぐ引っ込めた。
昨日、退院前夜に一時間ほど鋏を動かすだけの試運転配信を流したらしい。
俺は短く頷いた。中身を見るのは、また後でいい。
◇
寮までは、車で二十分ほどの距離だった。
アーサーは運転中、必要最小限しか口を開かなかった。
信号で止まった時に、こちらの様子を確認する視線がミラー越しに何度か動いた。
「主君」
走り出して十分ほど経った頃、彼が短く言った。
「過去のことを、急いで思い出していただく必要はありません。ただ、もしお尋ねになるなら、お答えします」
「分かった」
俺は窓の外を眺めながら頷いた。
質問は、まだ思いつかなかった。何を聞けばいいのかも、分からない。
ただ、彼が「主君」と呼ぶたびに、俺の身体が背筋を一度伸ばす。
その身体の動きだけは、抑えられなかった。
◇
寮の建物は、四階建てだった。
学園敷地内にあるが、一般生徒の寮とは別棟。玄関口に警備員が二名立っている。
「主君の部屋は四階の角です。鍵はこちら」
アーサーが鍵を差し出した。革のキーホルダーが付いている。手のひらに載せた瞬間、形が指の関節に馴染んだ。
これも、身体が覚えている類のものだ。
部屋の前に立つ。
扉の表札には何も書かれていない。ただ部屋番号「402」だけが小さく刻まれている。
鍵を回し、扉を開けた。
中の空気は、二週間ぶんの埃と、わずかに残った油の匂いがした。
◇
部屋は、俺の知らない人間の部屋だった。
玄関を入ってすぐの壁際に、武器棚が並んでいる。アサルトライフル、対物ライフル、ナイフが数本、サプレッサーの予備、空のマガジン。
すべて手入れが行き届いている。誰かが、毎日丁寧に拭いていた跡がある。
奥のクローゼットを開けると、戦闘服が三着、ハンガーに掛かっていた。色は黒、紺、ダークグレー。サイズは今の俺の身体に合う。
タクティカルベスト、レッグホルスター、軍用ブーツが二足。
部屋の真ん中にベッド。横の棚に、教科書らしきものと配信機材。
教科書の背表紙に「現代史」「魔素工学基礎」と書かれている。これ、本当に俺が使うやつなのか。手に取ろうとして、止めた。今は答えが出ない。
配信機材のほうは、絡まったケーブルが何本か垂れ下がっていて、どれをどこに繋ぐのかも分からない。機械は苦手だ、と思って、それが今の自分の素直な感想なのか、昔からそうだったのか、判別がつかなかった。
そして、ベランダに続く窓辺。
そこにだけ、別の世界が広がっていた。
◇
盆栽棚。
大小六鉢の真柏と黒松が、丁寧に間隔を空けて並んでいる。
病室にあった真柏は、その中で一番小さい鉢だった。アーサーが運んできた、と言っていた。
他の五鉢は、ここで二週間、誰が世話をしていたのか分からない。
だが、土の湿り具合を見れば、定期的に水をやっていた人間がいる。
俺は窓辺へ歩み寄った。
武器棚の前を通る時、身体が一瞬だけ「点検する」姿勢を取りかけた。視線が銃の固定金具を確かめ、指がベルトを撫でる動きを始めかけた。
慌てて止めた。
今やる必要はない。
盆栽棚の前に立った瞬間、肩から力が抜けた。
「……ここだけ、知ってる」
声に出して、自分でも驚いた。
武器の手入れ方は、どこかで習った気がする。だが「俺のもの」とは思えない。借り物の知識のようだ。
戦闘服の手触りも、体に馴染むが、自分の趣味で選んだ服には見えない。
だが、盆栽棚は違った。
六鉢の配置、鉢の選び方、土の表面の苔の入れ方。
これは、俺が選んだ。
誰でもない、俺自身が、一鉢ずつ選んで、ここに並べた。
なぜか確信があった。
◇
ベッドに腰掛け、机に視線を移した時。
二段目の引き出しが、わずかに歪んでいるのに気付いた。
開ける。
中には、A5サイズのノートが一冊、几帳面に置かれていた。
表紙に、太字のマーカーで一行:
『盆栽水やり当番表(皇ハルト名義)』
ページを開いた。
手書きの表が並んでいる。曜日、鉢ごとの欄、必要な水量、季節別の注意事項。
筆跡が整っている。だが、今の自分の字とは思えなかった。
俺は今、この字をこんなに丁寧には書けない気がする。
ノートの最後のページに、別の筆跡で書き足された一行があった。
『二週間ぶん、代行しました。問題なし。アーサー』
俺は、そのページを長く眺めた。
誰のものでもない知識が、まだ俺の指先に残っている。
でも、それを残しておいてくれた人が、扉の外にいた。
「アーサー」
扉を開け、廊下に呼びかけた。
アーサーが姿勢を正して立っていた。
「ありがとう。水やり、続けてくれて」
「主君のものですから」
彼は短く返した。それだけだった。
俺は扉を閉め、もう一度盆栽棚の前へ戻った。
窓から差し込む夕方の光が、葉の表面を一枚ずつ照らしていく。
明日、最初に水をやるのは、どの鉢からだろう。
ノートを見れば、書いてある。
◇
その夜、布団に入る前。
俺は武器棚を一度も触らなかった。
戦闘服も触らなかった。
ただ、盆栽棚の前を通る時だけ、もう一度足を止めた。
明日も、ここに帰る。
知らない部屋だが、明日も帰る場所ではあった。




