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第80話:英雄の不在

 政府の終息宣言が出されたのは、大扉閉鎖から十六時間後だった。


 全国五都市の共鳴反応は完全に消え、魔素濃度は平常値へ戻った。学園都市の上空に滲んでいた紫は、朝のうちに薄い藍へ吸い込まれて消えた。

 夕方のニュースは「合同実証訓練の異常事態」「迅速な収束」「探索者と自衛隊の連携」を、揃った言葉で繰り返した。

 市民の大半は、それを「ライブ演出」のまま信じ続けることを選んだ。


 その全てが、ハルトのいない場所で進んでいた。


     ◇


 学園、屋上。


 夕暮れの風が、レオの前髪を一度だけ持ち上げた。

 手すりに結城、雫、響がもたれて並んでいる。落ちこぼれ小隊と呼ばれていた連中だ。今はもう誰もそう呼ばない。


「七瀬さんの容態、田中さんから何か聞いたか」


 結城の声は低かった。


「『安定。覚醒未確定』。それ以上は俺にも回ってこない」


「そうか」


 雫が手すりを握り直した。指の関節が白い。


「私たち、なにかできることって、ある?」


「ある」


 レオは即答した。


「次は、こちらが守る側に回る。あの人が起きた時、戦場に呼び戻さなくて済むように」


 誰も拍手をしなかった。

 拳を握ったり、手のひらを強く握り直したり、ただ頷いたり。それぞれの形で、その言葉を受け取った。


 響だけが、空に向かって短く息を吐いた。

 怖かったのに、最後まで風の探知を切らなかった指が、まだかすかに震えている。

 その震えは、もう恥ではなくなっていた。


     ◇


 ギルド本部、特務監査部の執務室。


 田中は、書きかけの「終結報告書」を閉じた。

 書ける欄は埋めた。書けない欄は、別の書類に移した。


「七瀬遙の公式肩書き、『療養中の公認探索者候補生』で押し切ります。出席日数の特例も継続。報道規制は二週間で段階解除」


 部下が短く頷く。


「アーサー氏は」


「Sランクの私的見舞いとして処理。学園出入りは黙認」


「セナさんは」


「研究室の常駐継続。あの子を動かすと別の問題が起きる」


 別の問題、というのは情緒の話だった。田中は誰にもそれを言わなかった。


 窓の外で、街灯が一斉に点いた。普通の夕方の景色だ。

 田中は新しいファイルを開いた。表紙には『追跡・潜伏勢力』とだけ印字されている。

 黒幕首魁の影は、衛星も地下センサーも捉えていない。資金網は壊滅した。だが、人は金がなくても動く。理念だけで動く奴は、いつの時代もいる。


「事件は、まだ閉じない」


 田中は煙草を手に取り、結局火を点けずに机の上へ戻した。

 机の木目に、煙草の影がしばらく残っていた。


     ◇


 病室、午後七時四十二分。


 窓の外で、夕焼けの残光に街灯が一つずつ点り始めていた。

 モニターの心拍ラインが、一拍だけ波形を変える。

 ベッドの上の銀髪が、わずかに動いた。


「……」


 最初に動いたのは、瞼だった。少し遅れて指。肩が持ち上がるまでには、もう数秒かかった。


「……ここ、どこだ」


 声は掠れていた。

 すぐ脇の椅子で居眠りしかけていたセナが、はじかれたように立ち上がる。


「師匠!」


「……師匠?」


 ハルトはゆっくり首を巡らせた。視線がセナの顔を一度通り過ぎ、戻ってきて、止まる。

 止まったが、焦点が合っているのか、別のものを見ているのか、すぐには判別がつかない。


「……君は、誰だ」


 セナは、息が止まりかけた。

 返事をしようとして、何を返せばいいか分からなくなった。

 「師匠」「私」「セナ」「あなたの教え子」――どれも、今この瞬間のハルトに届く保証がない。


「……名前は、後で」


 セナは、それだけ言って、ベッドの脇へ膝をついた。

 ハルトは何も答えない。視線が、また泳ぐ。

 部屋の天井、点滴のスタンド、自分の細い手首。

 最後に、窓辺の小さな鉢植えに視線が止まった。


 病室の備品ではない。

 アーサーが、一鉢だけ寮から運んできた。主君の机の脇にあったものだ、と彼は短く言った。樹齢の若い真柏で、葉の形が整っている。


 ハルトの右手が、点滴の管を避けてゆっくり持ち上がった。

 親指と人差し指。残る三本は軽く曲げて、空中で形を取る。

 鋏を握る手だ。

 刃を寝かせる角度、枝を逃がす指の余裕、力の入れ方。


 誰に教わるでもなく、彼の指は、その形を覚えていた。


「……剪定、しないと」


 呟きは、誰に向けたものでもなかった。


 セナは、口元を押さえた。

 声が漏れそうになるのを、唇の内側で噛んで止めた。


 ハルトは少し考えるように天井を見て、ぽつりと続けた。


「俺、誰だっけ」


「……それは、ゆっくりでいい」


 セナは答えた。


 窓の外で、夕暮れの最後の青がゆっくり夜へ沈んでいく。

 病室の中で、銀髪の少女が一鉢の真柏を見つめている。

 その指先だけが、誰のものでもない知識を、まだ確かに覚えていた。


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