第81話:盆栽配信、爆誕
経過観察を兼ねて外来通院に切り替える、と医師が告げた。退院日は三日後。
その話を聞きながら、俺は窓辺の真柏を眺めていた。意識が戻ってから二週間が経つ。だが、自分が誰なのかは、まだ判然としない。
名前は「七瀬遙」だと教えられている。
だが、その名前を聞いても、特別な感情は湧かなかった。
代わりに浮かんでくるのは、別の名前だ。皇ハルト。アーサーが繰り返し口にする呼び方。聞くたびに胸の奥が、わずかに動く気がする。それも、本当に動いているのかどうか、自信はない。
「師匠、退屈そうだね」
ベッドの脇でタブレットを見つめていたセナが、顔を上げた。
この十四歳の少女が、俺をずっと「師匠」と呼ぶ。理由は教えてもらった。だが、俺の中に師匠と呼ばれた記憶はない。
「植木、いじりたい」
口から出た言葉に、自分でも少し驚いた。
考えて出した言葉ではない。喉が勝手に発した。
セナが、目を細めた。
「真柏?」
「うん」
「いいよ。剪定鋏、ちゃんと持ってきてる」
セナがバッグから革のケースを取り出す。鋏が三本、サイズ違いで収まっていた。
俺はその中央の一本に、迷わず手を伸ばした。
◇
手のひらに馴染む。
誰に教わるでもなく、親指の腹が刃の根元に当たる位置を覚えていた。
「セナ」
「うん?」
「これ、誰が使ってた?」
「師匠が」
返事の意味は分かる。
だが、実感は薄い。
手の動きだけが、勝手に枝を選んでいた。
窓辺の真柏は、退院に合わせてアーサーが寮から運んできたものらしい。葉の一部が伸びすぎている。落ち葉の影で、新芽の出方が偏っていた。
……どこで覚えた言葉だろう。
頭の中の言葉のほうが、手より遅い。
「あの、師匠」
セナがタブレットを構え直した。
「カメラ、回していい?」
「なんで」
「リハビリの記録。あと、もしかしたら、見てる人の刺激になるかもしれないから」
見てる人。
誰なのか、よく分からない。
だが、断る理由も思いつかなかった。
「好きにしろ」
「ありがとう」
セナがタブレットを三脚に固定した。
俺は手元へ視線を戻し、葉の偏りに鋏を入れた。
◇
最初の一枝を落とした時、自分の手の動きが少しだけ滑らかになった気がした。続けて二本目、三本目。指の腹が枝の太さを測り、刃を寝かせる角度を決めていく。
力の入れ方を、頭で考えていない。
時間の感覚が、ふっと薄くなる。戦闘の時とは違う、別の集中が来ていた。
どれくらい経ったかは分からない。
気付くと、真柏の樹形が、最初に見た時と少しだけ違う角度で立っていた。
偏っていた光の通り道が、整っている。
「……」
セナが、口を開けたまま俺を見ていた。
タブレットの画面を片手で覆い、もう片方の手で口を押さえている。
「どうした」
「師匠、配信、繋がってた」
「は?」
「ごめん、独断で。リハビリ記録のつもりって、嘘。最初からライブで流した」
俺は手元の鋏をケースへ戻した。
配信。
単語の意味は分かる。だが、自分が今していたことが「配信」と結びつかない。
「世間に、師匠が動いてるって伝えたかった。アーサーさんも田中さんも反対してたから、勝手にやった」
セナが目を伏せたまま続けた。
「最初の三十分は同接八千。次の三十分で一万。気付いたら、こっちが慌ててて」
「いま、何人だ」
「……二百八十七万」
セナが、タブレットの画面を慎重にこちらへ向けた。
数字が動いている。コメントが、画面の縁から縁まで切れ目なく流れて、目で追える形を留めていない。
『え、これ七瀬遙?』
『無事だったのか!?』
『いや、なんで盆栽?』
『鋏の構えがガチすぎる』
『中身おっさん説、再燃でいいか?』
「……何が起きてる」
「みんな、師匠の手だけ、ずっと見てた」
セナが、初めて少し笑った。
二百八十七万。
弾薬代に直すと、対魔弾が何箱買えるんだろうか。
ふいに頭の中に湧いた計算が、誰のものなのか、自分でもよく分からなかった。
◇
夕方。
病室のドアが小さくノックされた。
入ってきたのは、いつもの黒スーツだった。
「七瀬さん」
田中、と呼ばれている男だ。
名前と顔は覚えた。それ以外の関係は、まだ整理がついていない。
「動画、見ましたか」
「俺の手元らしいな」
「……ええ」
田中は窓際の真柏を一瞥して、椅子に腰を下ろした。
左手にエナジードリンクの空き缶を握ったままで、いつもより肩が落ちている。こめかみの白髪が、二週間前より明らかに増えていた。
俺が窓の外を眺め始めると、田中はそれを察したように先に話を切った。
「悪いほうから言います」
「頼む」
「病院の周辺で、不審な動きが出ています。盆栽配信の同接が三百万を超える前から、貴女の様子を窺う目が増えていた。今夜中に、警備を一段上げます」
「黒幕残党、と呼ばれてた連中か」
「ええ」
田中はエナジードリンクの缶を、空のまま指でひと回しした。
「良いほうは、貴女が、盆栽だけは確実に覚えていた、ということです」
田中の声に、ほんの少しだけ温度があった。
「皇ハルト時代、貴女の唯一の趣味でした。それが残っているなら、他のものも、いつか戻る可能性がある」
俺は窓辺の真柏を見た。
葉の偏りが直った樹形の影が、白い壁にゆっくり長く伸びていく。
誰のものでもない知識が、まだ俺の指先にだけ残っているらしい。
◇
その夜、セナが帰り際に、タブレットの画面を一度だけ見せた。
『七瀬遙、復活配信。盆栽。同接三百二十万』
俺はその文字を一度なぞって、画面を返した。
「明日も植木、いじっていいか」
「いいよ。でも、明日からはちゃんと配信って言って始めよう」
セナが小さく笑った。
俺は頷いた。
病室を出ていくセナの背中を、扉が閉まるまで目で追った。
明日もこの少女が来て、明日も鋏を握るらしい。
自分が誰なのかは、まだ分からない。
ただ、明日の予定が一つでも決まっていることは、なぜか嫌じゃなかった。




