第78話:グレイ・ゴースト、再起動
縦穴の縁に立った瞬間、迷う時間は残っていなかった。
ポーチから小瓶を取り出し、残りを一息に呷る。鉄と薬草の苦味が舌の奥に張りつき、次の呼吸で消えた。
半秒、視界の輪郭が揺れる。
もう半秒で、意識の継ぎ目が一段強く繋がった。
『主君、本当に――』
『議論は終わった』
俺はインカム越しに短く返した。
魔素のノイズで通信が乱れ始めている。距離はまだ五メートルもないのに、空気の重さが上層と違う。
縦穴の壁面には、点検用の螺旋足場が打ち込まれていた。
管理者用だ。降りながら確認させる気らしい。
ご丁寧なことだ。
◇
降下開始から二十秒で、最下層の床が見えた。
予想より広い。直径四十メートル前後。中央に共鳴炉の中枢コアが立ち、その根元を六体の守備兵が囲んでいる。番人の進化型だ。鎧は光を吸う黒。関節は二重構造。
俺は螺旋の最後の一段を蹴って、空中で銃を構え直した。
着地と同時に、手のほうが先に動いた。
左手前の二体に対魔弾を一発ずつ。命中部位は鎧の継ぎ目、右肩の裏。狙ったのは記憶じゃない。骨が覚えている角度だ。
残り四体が動く前に、俺はコアの脇まで距離を詰めていた。
『同期、開く』
セナの声がインカムに乗る。
『師匠の動き、こっちのモニターに出てる。停止式、走らせる準備できた。あとは認証だけ』
『了解』
手袋から取った認証チップを、コアの読取口に押し当てる。
拒絶音は鳴らなかった。緑色のラインが、コアの表面に一本だけ走る。
管理者が「最低限の鍵」として身につけていた以上、最深部までは通す設計だったらしい。
『認証通った。今だ』
◇
残り四体の守備兵が、三方向から閉じてくる。
俺は背中をコアに預け、銃をホルスターへ戻した。狭い空間でコアを背にして撃てば、跳弾か誤射でコア自体を傷めかねない。停止式の入る器を、自分で壊すわけにはいかない。
右手にナイフ。左手は空けておく。
左の一体は首の後ろの継ぎ目。
右の二体は膝の二重関節の片方。
最後尾は面体の隙間。
(順番だけだ)
動いた。
一体目の首裏にナイフを差し込み、抜くと同時にその体を盾にして二体目の突きを受ける。鎧の重さで二体目の腕が止まる。そこへナイフを突き直し、関節を内側にずらす。
三体目が横から来る。距離は届く。届くなら避ける必要がない。膝の二重関節の片方を踏み抜き、倒れる勢いに乗って四体目の面体へナイフの柄頭を叩き込む。
四体が一秒以内に床に沈んだ。
息は荒くない。
身体ではなく、長年の反射が手足を借りて動いている感覚があった。
昔、戦場で何度かそうなった。
名前で呼ぶなら、グレイ・ゴーストの動きだ。
◇
『流す』
セナの声と同時に、コアの導線が脈打った。
停止式の数列が、緑のラインで内部へ走り込んでいく。
数秒。
コアの鼓動が、不規則になる。
次の拍で、止まりかけ、また打ち、また止まる。
黒い門の輪郭が、ゆっくり収縮を始めた。
『反転、確認! 大扉、閉鎖方向に切り替わった!』
セナの声に、初めて感情が乗った。
◇
成功した瞬間に、足場が割れた。
コアが停止式の負荷で内側から崩れ始めている。中枢空間そのものが、構造を保てなくなっていた。
『隊長、退路は北側! 今、上から綱を投げる!』
アーサーの声が、遠い。
俺は走り出そうとした。
走り出した、はずだった。
次の瞬間、視界が下に流れている。
空中だった。
足場ごと床が抜けて、俺は落ちていた。
どれだけ反射が利いても、踏める場所がなければ意味がない。
左手で何かを掴もうとする。掴むものは何もなかった。
『主君!』
アーサーの声が、上から細くなっていく。
体が回転し、視界が黒に塗り潰される直前、奇妙な思考が頭を一つだけ過ぎった。
(盆栽の水やり、当番表は、机の二段目だ)
それを最後に、意識が抜けた。




