第76話:首魁
隔壁は、見た目ほど重くなかった。
アーサーが両手で押し開くと、分厚い鋼板が内側へ滑り、眩しい紫の光が通路へ溢れ出した。
熱ではない。
だが、皮膚の内側を直接炙られるような圧がある。
「……嫌な朝焼けだな」
俺は一歩踏み込んだ。
そこは巨大な炉心室だった。
円形の床。天井まで届く共鳴炉。中央には、黒い門の輪郭だけが浮かび上がっている。
大扉。
三十年前、名もなき最深部で嗅いだ、あの暗い気配と同じものがそこにあった。
リッチの呪いに貼りついていた古い術式の匂いも、今ならここへ繋がると分かる。
そして、その前に一人の男が立っていた。
黒いスーツ。白い手袋。顔は四十代にも六十代にも見える。
特別な威圧感はない。
軍人でも、宗教家でも、企業役員でもない。
なのに、その全部の匂いが薄く混ざっていた。
「ようこそ、皇ハルト。いや、今は七瀬遙だったか」
男は穏やかに言った。
俺は銃口を向ける。
「名乗れ」
「個人名は不要だ。私は管理者だ。国家、企業、信仰団体、研究機関。複数の出資者と理念を調整し、この計画をここまで運んだ」
「要するに、責任を取る名前がないわけだ」
男は否定しなかった。
「名前は感情を生む。感情は判断を曇らせる。大扉の開放に必要なのは、個人の狂気ではなく、継続可能な管理体制だ」
「つまらん言い訳だな」
「言い訳ではない。人類は常に、名を持たない仕組みによって動いてきた。税制、法、軍需、信仰。誰が命じたか分からないまま、人は働き、戦い、死ぬ。ならば我々は、その仕組みを次の環境へ合わせて更新するだけだ」
胸糞の悪い話だった。
引き金を引いた奴の顔が見えない戦争ほど、兵士を腐らせるものはない。
昔、そんな命令で部下を何人も失った。
「お前の計画で死ぬ人間は、何人だ」
「適応できない個体数なら算出済みだ」
「人数を聞いている」
「率で管理している。都市単位の変動で、個人名を数える意味はない」
アーサーの喉から、低い唸りが漏れた。
セナの端末を握る指が白くなっている。
俺はトリガーに指をかけた。
撃つ。
そう判断したはずだった。
次の瞬間、俺は銃口を下げていた。
時間が抜けた。
一秒か、二秒か。
分からない。
「師匠」
セナの声が横から飛ぶ。
俺は歯を噛み、銃を構え直した。
半量の抑制薬で症状は抑えた。だが、完全ではない。
記憶の継ぎ目が、ところどころ腐った床板みたいに抜ける。
「興味深い」
管理者は、初めて感情らしい色を声に乗せた。
「君は壊れながら、まだ最適解へ戻る。肉体は若く、記憶は老い、呪いで劣化しながらも、戦闘判断だけは規格外だ」
「褒め言葉なら、もっと現金な形で頼む」
「君の戦闘最適化は、新時代の規格になる」
管理者の背後で、共鳴炉の光が強くなった。
「高濃度魔素環境下で、人間がどう生き残るか。どの記憶を捨て、どの反射を残し、どの肉体を標準とするか。君はその完成形に最も近い。老練な経験を、軽量で適応性の高い肉体へ移植した実例だ」
「俺は標本じゃない」
「標本ではない。原型だ」
アーサーが一歩前に出た。
その剣の腹が、床を低く鳴らす。
「主君を侮辱するな」
「侮辱ではない。勧誘だ」
管理者は俺だけを見ていた。
「こちらへ来い。皇ハルト。君の過去の作戦記録、射撃癖、撤退判断、部下の使い方。すべて研究した。君なら、この扉の向こう側で生まれる秩序を、最も効率よく運用できる」
「俺の記録を見たなら、分かるだろ」
「何をだ」
「俺は、上司に恵まれたことがない」
俺は小さく笑った。
喉の奥が渇いている。
右目の霧は引いたが、頭の奥に空白がある。
それでも、返す言葉だけは迷わなかった。
「断る」
管理者の眉がわずかに動いた。
「理由を聞こう」
「俺は管理職が嫌いだ。会議も嫌いだ。人を規格に押し込む連中はもっと嫌いだ」
俺は銃口を、男の額ではなく足元の制御盤へ向けた。
額を撃っても大扉は止まらない。
止めるなら命令系統だ。
「それに、俺の老後の予定表には、大扉の運用責任者なんて項目はない。盆栽の水やりで埋まってる」
引き金を引いた。
弾丸は制御盤を貫いた。
火花が散り、共鳴炉の鼓動が一瞬だけ乱れる。
だが、止まらない。
むしろ、炉の奥で別の音が鳴った。
予備系統ではない。
撃たれた端末が、逆に炉心へ何かを流し込んだ。
(餌か)
見える場所に制御盤を残していた理由が、ようやく腑に落ちた。
「制御盤はただの端末だ。現場の兵が機械を壊せば作戦が止まる、という時代は終わった」
「趣味の悪い冗談だ」
「冗談ではない。君の記録にそうあった。現場の兵は、まず目に見える制御を壊す」
「残念だ」
管理者は、白い手袋の指を炉心へ向けた。
「では、予定を早める」
セナが悲鳴に近い声を上げた。
「強制開放信号! だめ、炉心が安全域を無視してる!」
黒い門の輪郭が、音を立てて広がった。
世界そのものに亀裂が入るような音だった。
床が沈み、天井から鋼材が剥がれ落ちる。
「アーサー、セナを守れ!」
「承知!」
アーサーが盾のように前へ出る。
俺はセナの前に体を入れ、管理者の膝へ銃口を向けた。
だが、次の瞬間、足元の床が割れた。
共鳴炉の中枢空間が、崩れ始めていた。




