第75話:共鳴炉、点火
足元の振動が、急に性質を変えた。
これまでは低く一定の鼓動だった。それが、心拍の乱れるような不規則な波に切り替わる。コンクリートを通じて骨に伝わり、胃の底が浮き上がるような不快感が走った。
「師匠」
セナが端末を抱えたまま立ち止まる。画面が赤く光り、数値の表示が一度だけ限界を超えてリセットされた。
「炉が動いた。本点火だ」
セナの声に力がない。予測していた事態でも、実際に数値を見れば違う。
先行するアーサーを手信号で止め、有線のインカムに切り換えた。レオからの報告が飛び込んでくる。
『地上が光っています。空が――空の色がおかしい。夜明けじゃない。魔素光だと思います。市内全域に広がってます』
「被害は」
『建物の破損はまだない。ただ市民が外に出始めて……通信が殺到していて田中さんのラインが詰まってます』
「キララのほうは」
一拍の間があった。
『配信、繋がってます。今「これはライブ演出です、心配しないで」って言い続けてます。コメントが止まってない』
「分かった。引き続き頼む」
通信を切った。地上はキララが抑えている。今の俺にできることは地下だけだ。
◇
炉の点火と同時に、右腕の灼熱が喉元まで上がってきた。
十歩ほど進んだところで、足が床から重くなる感覚があった。踏み出しが遅れる。意識と身体のズレではなく、身体そのものが遅れている。
壁に片手をついて止まった。
アーサーが振り向き、足音を消して戻ってくる。セナは俺の顔を見ずに端末を見ていたが、数値ではなく俺の腕の辺りをちらりと確認して、短く言った。
「師匠」
その一言だけだった。以前に決めた通りだ。セナが「今だ」と言う。俺が決める。
俺はタクティカルポーチから小瓶を取り出し、蓋を外して半分だけ呷った。残りを塞いでポーチへ戻す。ヒール堂のポーションより数段マシだが、鉄と薬草を煮詰めたような、飲みたいとは思えない味だった。
アーサーが言葉を飲み込んでいるのが気配でわかった。ラボで強く反対した時と同じ顔だろう。何も言わないのは、俺が決めたと分かっているからだ。
三十秒ほど経つと、右腕の灼熱が薄れ始めた。
視界の霧が少し引く。右目の輪郭が戻ってくる。深呼吸ひとつで、足がしっかり床を踏む感覚が戻った。
壁から手を離す。
「歩ける」
「分かった」
セナが端末を確認する。表情が一瞬だけ緩んでから、すぐに戻った。アーサーが先頭に戻り、三人で前へ進む。
前方に、通路の終端が見える。分厚い隔壁。その向こうから、共鳴炉の鼓動が直接響いてくる。扉一枚の距離だ。
足を踏み出した、次の瞬間。
――俺はアーサーの背中を見ていた。三メートル先を歩いている。足元の感触が、さっきより硬い。
いつ、歩き出したのか。
数秒が、どこかに落ちている。
セナが横で端末を見せてきた。画面には何も書かれていない。ただ俺を見ている目だけがあった。
「続ける」と俺は言った。
隔壁の前に立つ。鼓動がここまで伝わってくる。炉の熱が、扉の鋼板を通じて指先に届いた。
首魁は、この先にいる。




