第69話:呪いの閾値
校舎東棟の第一通路。共鳴獣が三体、押し込まれていた。
俺はナイフを逆手に構え、壁を背にして呼吸を整えた。後方でセナが端末を握っている。前方でレオの班が残り二体を牽制している。俺が担当するのは最も大きな一体――七十キロ超のトカゲ型変異種だ。正面の弾丸は岩鱗に弾かれる。首裏の鱗接合部を狙う。踏み込む角度は右から――
次の瞬間。
俺は廊下の奥に立っていた。
右手のナイフに血が付いている。足元に三体の死骸が転がっていた。
「師匠……?」
後ろの壁際でセナが固まっている。レオは開いた口を閉じられずにいた。
(何秒、経った)
腕時計を確認する。三分十七秒。
俺は戦い続けていた。だが、覚えていない。
レオが足音を忍ばせて近づいてきた。
「あの……七瀬さん。三体目を仕留めた後、名前を呼んだんですが、返事がなくて」
「そうか」
「目が、少し……」
「続けろ。搬送ルートの確認が先だ」
レオが何かを言いかけて、飲み込んだのが気配でわかった。
◇
「戦闘ログ、引っ張った。確認する?」
対策本部に戻ってすぐ、セナが静かに聞いた。
「見せてくれ」
画面の中で俺は、まるで別人のように戦っていた。
壁を蹴って跳び、トカゲ型の首裏へナイフを正確に差し込む。着地しながら振り向き、迫ってきた猟犬の眼窩へ銃口を押し込んで引き金を引く。三体目は最後尾から回り込み、顎の下へ膝を差し込んで絞め落とす。三分十七秒の間、一切の無駄がない。
見覚えのない動きではなかった。確かに俺の動きだ。だが俺は、これを「やった」記憶がない。三分十七秒分の身体の記憶が、どこかにこぼれ落ちている。
(問題は、次に欠落が起きる場面だ。ナイフを構えた瞬間かもしれない。指示を出している途中かもしれない)
「前にナイフを置き忘れたのとは、種類が違う」
セナが言う。俺から言い出すより先に言葉にしてくれた。
「あれは記憶の欠落。今回は、動いている間の意識が途切れてる。Lv3移行の典型的な症状だよ」
「次はいつ起きるか、予測はできるか」
「できない。負荷がかかれば起きる可能性が上がる。それだけ」
俺は腕を組んだ。
「最悪の場合、指揮の記憶が飛ぶ。そうなれば指示系統が崩れる」
「……そう」
「だが、前線を退けば、今の学園の戦力では対処できない部分が出る」
その言葉が宙に漂ったまま、静止が続いた。
「主君」
振り向くと、ドアの前にアーサーが立っていた。いつから聞いていたのか。その顔には、俺が見たことのない種類の硬さがある。
「俺が代わります。前線は任せてください。主君は本部で指揮だけを」
「お前に代わりはできない」
「できます。俺の剣なら――」
「戦力の問題じゃない。敵は俺を中心に戦術を組んでいる。俺が引けば敵は再調整する。その隙に死者が出る」
アーサーが拳を握る音がした。
「……それが合理的だとしても、俺は主君に倒れてほしくない」
「倒れる気はない」
どちらも動かなかった。十秒ほど、部屋の空気が固まった。
「二人とも」
セナが割り込んだ。「続けていい。でも今じゃなくていい話は、あとにして」
アーサーが長い息を吐き、剣の柄から手を放した。
俺はタクティカルポーチから小瓶を取り出し、テーブルに置いた。
「最終日まで、これは使わない」
「でも――」
「使うかどうかは俺が決める。ただし、お前が『今だ』と言ったら、俺はもう一度考える。それでいいか」
セナがしばらく俺の顔を見ていた。
「……わかった。私が言う。師匠が決める」
「それでいい」
俺はポーチに小瓶を戻した。
廊下の奥から、レオたちが戻ってくる足音が聞こえた。
セナは端末を開いたまま、何かを打ち続けている。今夜の呪い進行ログの更新だろう。アーサーは部屋の隅に立ち、出口に目を向けていた。剣の柄には触れていない。
不安がないとは言わない。ただ、それぞれが次の手に向き直っていた。
俺は地図を広げ、明日の防衛ラインを引き直した。




