第64話:偽りの休戦
湾岸サーバー拠点の急襲を終え、大した成果も得られぬまま泥まみれで帰還した直後。
深夜の対策本部に、不釣り合いなくらい軽い声が響いた。
『黒幕側の幹部が動くわ。ルートと日時はこれよ。どう、一時休戦して手を組まない?』
別室の厳重な隔離セルに収容されているアリスが、モニター越しに微笑んでいる。先日の作戦後、彼女の扱いは一時的な現場同行から再び「拘束下の重要参考人」へと戻されていた。
画面の横に表示されたのは、市外へ抜ける山間部のルート座標だった。
田中が額に深いシワを寄せ、眼鏡のブリッジを押し上げる。
「罠の公算が高いですね。二重のトラップ(ダブルトラップ)だとしたら、こちらの実働戦力を一挙に削られます」
「だろうな。だが、餌の味見くらいはしてやる価値がある」
俺はルート図を睨んだ。
敵の戦力分布を考えると、このタイミングでの幹部移動は不自然だ。だが、完全な偽情報にしては妙に手際が良すぎる。
「罠なら、こちらも罠を張り直すだけだ。彼女の言うルートを囮にする」
『あら、信用がないのね』
「戦場じゃ、他人の善意を信じた奴から死んでいく」
俺の言葉に、アリスは楽しげに肩をすくめた。
◇
冷たい雨が降る、深夜の山間道路。
アリスが提示したルート上で、レオ班が正面から派手な陽動を仕掛けていた。
急停止した敵の護送車列。装甲車から飛び出してきた重武装の傭兵もどきたちが、レオの放つ巨大な火球と、それに続く突風の猛攻に完全に釘付けにされている。
その隙を突き、俺とアーサーは別ルートから最後尾の特装無防備車両へと肉薄した。
「アーサー、開けろ!」
「承知!」
アーサーが大剣の柄で後部ドアのヒンジを粉砕する。
俺は間髪入れずに車内へ閃光手榴弾を放り込み、爆音と同時に突入した。
だが。
「……空か」
シートに幹部の姿はなかった。もぬけの殻だ。
代わりに、座席の横に銀色のジュラルミンケースが一つ、ぽつんと置かれている。
『ごめんなさい。幹部には直前でルートを変えられたみたい』
通信機からアリスの声が響く。芝居がかった、白々しい声色だった。
「わざと逃がしたな」
『まさか。でも、手土産は置いていったでしょ?』
俺は無言のままケースを手繰り寄せ、ロックを銃床で叩き割る。
幹部の逃走経路を確保させる代わりに、この品を餌として寄越したのだろう。アリスの腹黒さは相変わらずだ。だが、今はその『出涸らしの餌』でも食いつくのが先決だった。
中には、複雑な魔法陣が刻まれた基板と、禍々しい魔素を放つ結晶体が詰まっていた。
セナが事前に見せていた資料と一致する。共鳴塔の起動キーの複製機だ。
「……上出来だ」
ケースを乱暴に閉め、俺は舌打ちを一つ落として撤退の指示を出した。
◇
翌朝。
泥と雨水にまみれた装備を外しながら、俺は冷めたコーヒーを煽った。
「幹部の首は取れませんでしたが、この複製機を奪取した意味は大きいです。敵の進行速度は確実に落ちます」
田中の声には、確かな安堵が混じっていた。
勝って全てを終わらせるようなスマートな戦いなど、都合のいい御伽噺だ。現実は常に泥に塗れ、血を吐きながら一歩ずつ防衛線を押し上げるしかない。
「師匠、これ……ただのデータコピー機じゃないよ」
複製機を分解していたセナが、モニターから目を丸くして振り返った。
「内部の通信ログに、旧政府の地下施設の座標が残ってる」
「地下だと?」
「うん。大扉へ直結する、未登録の『深層物流航路』。敵はそこをメインの兵站ルートに使ってるみたい」
俺は空になった紙コップをゴミ箱へ放り投げた。
見えない敵の、アキレス腱。ついに辿り着いた。
「そこを潰せば大扉は開かないんだな」
「理論上はね。でも、魔素濃度が異常だよ。普通の人間なら数十分で肺が腐るレベル」
「問題ない。息を止めて走れば済む話だ」
冗談抜きで、呪いの進行より先に敵の喉元に食いつく必要がある。
俺はタクティカルナイフの刃こぼれを指先で確認しながら、短く息を吐いた。




