第62話:抑制薬の副作用(プロトコル)
学園の地下深く。元々は食料や資材を保管するための非常用の備蓄倉庫だった場所が、今は無数のケーブルとモニターが並ぶ即席の医療・研究ラボとして稼働していた。
無機質で冷たい蛍光灯の光の下、ステンレス製のアルミテーブルの上に、一本の小さなガラス瓶がぽつんと置かれている。
中に入っているのは、どんよりと濁った紫色の粘性液体だった。
「完成したよ、師匠。徹夜の突貫工事になっちゃったけど、なんとか間に合わせた。……『呪い』の進行を一時的に遅らせる、抑制薬の試作品」
サイズの合っていない白衣を羽織ったセナが、目の下の深い隈をゴシゴシと擦りながら言った。
ここ数日、仮眠すらまともに取っていないのだろう。声がひどく掠れており、目も充血している。
「よくやったな。少しは休め。お前が倒れたら、この学園の頭脳が半分消えるぞ」
俺は労いの言葉をかけながら小瓶を手に取り、天井の光に透かしてみた。
見た目は、絵本に出てくる魔女が大鍋で煮込んだ毒薬そのものだ。正直言って、口に入れるのも躊躇われる色だった。
だが、背に腹は代えられない。ここ最近の記憶の飛落ちは、実戦において文字通り致命的なレベルに達しつつある。弾倉の残弾数を忘れるようになれば、傭兵としてはおしまいだ。
覚悟を決めて蓋を開けようと親指を引っかけた瞬間。
横から猛然と伸びてきた銀色のガントレットの腕が、俺の手首を万力のようにガシリと掴んだ。
「お待ちください、主君!」
いつの間にか背後に控えていたアーサーだった。
普段は騎士らしく冷静なはずの彼の目が、今は血走っている。セナと同じくらい寝ていないはずの彼だが、その握力には凄まじい力がこもっていた。
「その怪しげで禍々しい薬が、どれほどの効能を持つかは存じません。しかし、副作用の検証も臨床試験も済んでいないような代物を、主君の尊いお体に盛るなど……従騎士として、断じて、断じて見過ごせません!」
「落ち着け、アーサー。腕が折れる。俺の身体はもう、悠長に検証結果を待機できる状態じゃないんだ。それに、セナが作ったものだ。最低限の安全性は確保されてる」
「ですが……! 万が一、その毒薬のような液体が主君の命を脅かすようなことがあれば……!」
アーサーは冷たいコンクリートの床に片膝をつき、己の胸の装甲に拳を当てて悲痛な声を上げた。
狂信的とも言えるその騎士としての忠誠心には頭が下がるが、今の俺にはそれに応えてやれる余裕がない。
必死に食い下がるアーサーをどうにか制し、俺はセナに視線を向けた。
「で? 当然、副作用はあるんだろ」
俺の真っ直ぐな問いに、セナはタブレットの画面をあちこち操作しながら、ひどく気まずそうに目を逸らした。
「……ある。それも、軍事行動においては、かなり無視できないレベルで」
「どんな症状だ。身体能力の低下か? それとも心臓の寿命が縮むとかか?」
「ううん。肉体的な悪影響はないよ。そこは完璧に調整したから。問題は……精神のほう。戦術思考の著しい低下と、言語野への一時的な干渉が予測されてる」
セナが空中に映し出したのは、魔法生物のラットを使った実験データだった。
薬を投薬されたラットは、ストレス環境下での判断力が極端に鈍り、迷路をクリアできなくなるばかりか、「幼児退行」に近い無防備な行動パターンを見せているらしい。
「具体的に言うと……薬が効いている間、師匠の思考や口調が『完全に今の外見年齢(JK)に引っ張られる』可能性が高いの。つまり、冷徹な傭兵としての、その年齢相応の判断ができなくなる危険性があるってこと」
俺は眉間を深く揉み込んだ。
要するに、戦場で血みどろになりながら「マジ無理、これ超ヤバいウケるんだけど」などと口走り、敵の銃口の前で満面の笑みでピースサインを決める可能性すらあるということだ。司令官としては、文字通り、そして別の意味でも致命的だった。
「……確かに、それはアーサーが止めるのも頷けるな」
「だから言ったではありませんか! そのような恐ろしい薬、ただちに裏庭で破棄すべきです!」
「いや、破棄はしない。もらうぞ」
俺はアーサーの硬い手を強引に振り解き、毒々しい紫色の小瓶をタクティカルポーチの奥深くへと押し込んだ。
「常態的な服用は避ける。こんなものを飲んで女子高生みたいな真似をするくらいなら、舌を噛んで死んだほうがマシだ。だが、もし戦闘中に俺の記憶が致命的に飛び、指揮系統にバグが出た時の『最後の安全装置』として、この一本だけは携行する」
「主君……」
「安心しろ。使わずに済むなら、それに越したことはない」
俺の言葉に、アーサーは悔しげに唇を噛みながらも、主命とあってはそれ以上は引き下がらなかった。
だが、安堵する間もなく、セナがもう一つの分厚いデータ・ウィンドウを空中に展開した。
その幼い顔には、先ほどまでの気まずさとは全く違う、底冷えするような真剣さが張り付いている。
「師匠。薬の副作用は、厄介だけど想定内なの。……本当にヤバいのは、この薬の『レシピ』の出処のほう」
セナが展開したウィンドウには、吐き気がするほど複雑な化学式と、魔法陣の法則を示すおびただしい数の数列が並んでいた。
「この抑制薬、私がゼロから開発したんじゃない。先日、湾岸で田中さんたちが鹵獲した『共鳴塔』の回路に焼き付いていた、謎の冷却用ケミカルのソースコード……それを逆算して作ったものなんだ」
「……長ったらしい説明はいい。どういう意味だ?」
「ウロボロスが使っている塔の冷却液と、師匠の若返りの呪い……『同じベースロジック』の術式で構成されてるってことだよ。つまり――」
セナの言葉の続きを待つまでもなく、俺の背筋に氷をねじ込まれたような冷たいものが走った。
偶然の一致なわけがない。
三十年前。名もなき極秘ダンジョンの最深部で遭遇した、あの冒涜的な肉の塊。
異常な魔素を撒き散らし、部隊を半壊させ、俺に『若返りと弱体化の呪い』を泥を這いずり回るように植え付けた正体不明の化け物と。
今現在、学園都市を狙って大規模な魔素テロを仕掛けてきている黒幕『ウロボロス』の技術が。
「……両者の根源が、全く同じところにあるってことか」
口の中に、古い鉄錆を舐めたような嫌な苦味が広がった。
事態は単なる都市防衛の域を越え、俺個人の『過去の因縁』と直接リンクし始めている。
三十年前の亡霊が、今になって俺の首を絞めにきたというのか。
俺はポーチの中の小瓶の重みを確かめるようにポンポンと上から叩き、重くため息をついた。
「厄介なことになったな。……アーサー、防衛ラインの再点検と出入りの監視強化だ。敵は俺たちの想像以上に、こちらの内臓まで近づいているかもしれないぞ」
俺の指示に、アーサーは剣の柄に手を当て、深く頭を下げた。
地下ラボを後にする足取りは、先ほどよりもさらに鉛を詰めたように重くなっていた。
連日の激務のせいか、胃袋のあたりがキリキリと不快な音を立てて痛むのを感じながら、俺は階段を上る。
こんな日は、熱いお茶漬けに梅干しでも乗せてかき込みたい気分だったが、学園の食堂のメニューはとっくにレーション(野戦食)と固いビスケットに切り替わっていたことを思い出し、さらに気分が沈んだ。




