第59話:予行起動(フェーズ・ベル)
研究棟のソファで一時間だけ目を閉じた。
起き上がった瞬間、右肩が嫌な角度で引っかかる。
昨夜の水路で銃を構え続けた代償だ。低温と水圧が重なると、こういう残り方をする。
腕を縦に回して軋みを確かめる。
動く。だが、今夜もう一戦は厳しい。
「眠れましたか」
アーサーが壁際からこちらを見ていた。
「充分だ」
嘘だ。目が乾いている。
時刻は午前六時十四分。
対面の机では、セナが端末を開けたまま舟を漕いでいた。
徹夜でデータを解析して、力尽きたのだろう。
アリスは昨夜のうちに護衛付きで収容室へ戻した。使い切った駒は、元の箱に入れておく。
その端末が突然、甲高いアラームを鳴らした。
「魔素濃度が――」
言い切る前に、窓の外の空気が黄ばんだ。
霧ではない。視界はある。
ただ、光の色が変わっている。
砂塵弾が降った後の空に、よく似ていた。
「疑似ゲート(フォールス・ゲート)反応。学園東南、半径三百メートル以内」
セナが寝起きのまま読み上げる。声だけは澄んでいた。
「予行起動だ」
司祭が鍵を使った。
田中への通信を入れる。ノイズが酷い。発話は最小限に絞る。
「全候補生を三グループ。東南の民間区から優先避難。レオ班を東門に出す」
「了解です。通信は有線以外では断絶の恐れが」
「分かってる。各班は手信号と色旗で動かせ」
◇
廊下へ出た瞬間、セナが立ち止まった。
向こうから避難中の候補生が十数人、一度に押し寄せてくる。
声が重なり、足音が重なり、誰かが誰かの名前を叫んでいた。
セナは端末を胸に抱えたまま、壁際へ一歩退いた。
指先が、端末の角を何度も押さえ直している。
大勢が同時に動く場所が、昔から苦手なのは知っている。
「セナ、動かなくていい」
俺は通路越しに声を掛けた。
「解析は室内でやれ。外は俺たちで片す」
「……はい」
小さく頷いて、部屋の方へ向き直す。
それでいい。誰もが前線に出る必要はない。
◇
東門の外は既に滑っていた。
アパート区の住民が荷物を抱えて溢れ出し、避難路の入口が詰まっている。
その横の小路から、共鳴獣が三体出てきた。変異種ではない。ゴブリン、通常個体だ。
銃は使えない。群衆の中で跳弾が出れば意味がない。
ナイフを抜く。
一体目の喉を落とす。
二体目の膝を崩して転ばせる。
三体目は逃げた。
ナイフを振り切った反動が、右腕から肩へ抜ける。
昨夜の水路で拾った鈍い熱が、首筋まで這い上がっていた。
構っている暇はない。
「七瀬さん!」
有線に繋ぎ替えたイヤホンから、レオの声が飛び込んだ。
「東ルートが完全に詰まってる。隣のアパートの三階に住民が残ってます。火元は二階、まだ小さい」
「北路地の状況は」
「……確認します」
一拍の沈黙があった。
レオが自分で判断しようとしている間だ。
「……北ルートを俺が開けます。先頭走って案内します」
俺は何も言わなかった。
四分後、北ルートで住民十三名が避難完了した、という報告が入った。
声に、かすかに震えがあった。初めて独断で動いた人間の声だ。
「よくやった」と短く返す。
◇
共鳴塔の中継コアは、東南の変電設備小屋の地下にあった。
アーサーが扉を蹴破り、俺が入る。
縦三十センチほどの結晶体が地面に埋まり、青い光脈を床に広げていた。
根元三箇所で支持されている。
「素手で触るな」
アーサーが鍛鉄の小手を嵌め直す。
俺はポイントを選んで打つ。
一箇所目。亀裂が走る。
二箇所目。光脈が揺れる。
三箇所目。
コアが静かに沈黙した。
外の黄ばんだ空気が、ゆっくり薄れていく。
◇
設備小屋の外壁に背を預けた時、膝が細かく震えていることに気づいた。
制服の袖が、指の第一関節まで余っている。朝はここまで長くなかった。
体温を確認する。
水路から引きずっている熱が、とうとう額に達していた。視界の端が、わずかに滲む。
外壁の凹凸が背中に刺さる。以前なら拾わなかった痛みだ。
これは疲労ではない。呪いの進行だ。
セナが走ってくるのが見えた。端末を抱えたまま、小走りに。
「師匠、顔色が」
「問題ない」
「顔色、見ればわかります」
黙ってデバイスを額に押し当てられた。
数値を見たセナが、端末を胸に引き寄せる。
「……報告、しないといけませんか」
「後だ。作業が先」
「先生に」
「終わったら話す」
アーサーが遠くで回収品をまとめている。
コアの沈黙と同時に、田中からの無線が復旧した。学園周辺の異常反応、消滅確認。
レオから追報。全班、離脱完了。負傷者なし。
俺は余った袖を手首まで引き戻した。
まだ誰にも気づかれていない。たぶん。




