第48話:転校生の正体(化学兵器感知)
翌朝、俺は下駄箱の前で立ち止まった。
(……触られてるな)
鍵穴の縁に、爪の先ほどの擦過痕。床には靴底の粉。昨夜、閉館後にここを弄った奴がいる。
俺は何食わぬ顔で扉を開け、教科書と一緒に透明のジッパーバッグを奥へ滑り込ませた。中身は蛍光塗料入りの粉末だ。人体には無害。触れば数時間は手が光る。
ついでにロッカー扉へ、ラベルシールを貼る。
開封注意 簡易罠作動中
嘘だ。罠そのものは仕込んでいない。
警告だけで止まる相手か、踏み込む相手かを見るための仕掛けだ。
午前の授業が終わる頃、俺は廊下の窓ガラス越しにロッカー列を観察していた。
扉の前で立ち止まったのは、見慣れない男子二人。貼り紙を見て顔を寄せ合い、笑って去る。
五分後、別の生徒が俺のロッカーへ手を伸ばしかけて引っ込めた。
噂は想像以上に速く回る。これで牽制線は一本引けた。
その直後、アリスが通りすがりに俺へ視線を投げた。
ほんの一瞬。ラベルを見る目だけが、他の連中と違っていた。
怯えでも好奇心でもない。手順を組み替える時の目だ。
◇
昼休み。俺が屋上から戻ると、教室の空気が妙に甘かった。
窓は閉まり、換気扇も止まっている。誰かが意図的に空気を留めた痕跡だ。
「ナナセ、隣いい?」
アリスが自然な笑顔で俺の席へ腰を下ろした。紙コップを二つ。片方を俺の机へ置く。
「ハーブティー。緊張に効くやつ。昨日、疲れてたでしょ?」
「気が利くな」
俺はコップを持ち上げ、口元まで運んで止めた。
無臭。だが、湯気の揺らぎが不自然だ。揮発速度が速すぎる。
鼻腔の奥に、金属を舐めた時のような微かな刺激が走る。
(溶媒入りか。質問前提の薬剤だな)
俺は静かにコップを戻した。
「全員、窓を開けろ」
教室が凍る。
「……え?」
「換気だ。今すぐ」
ガタッ、と椅子を蹴って立ち上がる。
通学鞄のサイドポケットから折り畳み式ガスマスク(タクティカル・レスピレーター)を引き抜き、ゴムバンドを頭へ回し、フィルターを捻り込む。密閉確認まで三秒。訓練通りの手順だ。
教室中の視線が集まった。
「な、七瀬さん!?」
「また戦争始まるの!?」
俺は窓側へ走り、片っ端から開放した。廊下側の扉も全開。空気を通す。
担任が飛び込んできたところで、ようやく口を開く。
「防災訓練だ。密閉空間での不明薬剤対策。覚えておけ。匂いがなくても危険物はある」
「七瀬さん! 訓練は事前申請が必要で――」
「後で始末書は書く。今は換気が先だ」
教師は状況を理解できず固まっている。だが、生徒は俺の勢いに押されて動いた。窓が一斉に開き、空気が入れ替わる。
数分後、軽い頭痛を訴える生徒が二人出た。保健室へ回す。重症者はいない。
濃度は低かったらしい。尋問用としては妥当だ。対象を眠らせず、口だけを軽くする設計。
その隙に、俺は問題の紙コップをジッパーバッグへ回収した。
アリスの方を見る。
彼女は笑っていた。いつもの柔らかい笑顔。
だが、喉元の脈も呼吸も乱れていない。瞳だけが氷みたいに冷えている。
「大げさだね、ナナセ。ただのお茶なのに」
「備えは過剰なくらいでいい。特に学校はな。……換気は重要だ。テストに出るぞ」
俺はマスクを外し、鞄へ戻した。
教室の後方でセナが親指を立てる。状況を察したらしい。
◇
放課後、研究室。
俺は回収した紙コップの縁をセナに渡した。
「分析を頼む」
「了解。……って、これ何?」
「たぶん自白補助剤。質問に答えやすくする類だ」
セナは数分で一次結果を出した。
「ビンゴ。微量だけど、神経系を鈍らせる成分が出てる。無味無臭型。市販品じゃないね」
「そうか」
椅子にもたれ、天井を見上げる。
相手は雑魚じゃない。学校という檻の中で、周囲を巻き込まずに刺してくるタイプだ。
「師匠、どうする?」
「泳がせる。次は必ず踏み込んでくる」
「ロッカーの方は?」
「貼り紙だけで半分は止まった。残り半分は観察対象にできる。悪くない成果だ」
窓の外では、夕焼けの校舎に部活の声が響いていた。
平和な学園風景の裏で、静かな諜報戦だけが濃くなっていく。
帰り際、俺は寮の自室に寄ってドア枠を確認した。
目印にしていた髪の毛が一本、位置を変えている。
鍵は無傷。つまり、合鍵かピッキングだ。
「……次は夜だな」
玄関灯を消し、靴箱の上に小さな真鍮の鈴を置く。
糸一本で繋いだ原始的な鳴子。
最新の電子センサーより、物理の音が信用できる夜もある。




