第32話:決戦(後編)
「グルァァァァァァ!!」
『暴食の王』が咆哮する。
その声だけで、研究所のガラスというガラスが粉々に砕け散った。
黒い霧を纏った巨体は、まるでヘドロで出来たドラゴンのようだ。
「くっ! 我が剣が……通じないだと!?」
アーサーが驚愕の声を上げた。
彼の聖剣が放つ黄金の斬撃。それがベルゼブブに触れた瞬間、黒い霧に吸い込まれるように消滅したのだ。
『師匠! 魔力攻撃はダメ! あいつ、周囲の魔素を全て捕食してエネルギーに変えてる! 魔法やスキルを使えば使うほど、相手が回復しちゃうわ!』
セナの悲痛な叫びがインカムに響く。
魔法使いや、魔力依存度の高い剣技を使う冒険者にとっては天敵のような相手だ。
そう、普通のファンタジー世界なら「絶望的な強敵」だろう。
――だが。
「……相性が悪いな、アーサー」
「む……隊長?」
「魔力が効かないなら、殴ればいいだけの話だ」
俺はナイフを逆手に持ち替え、走り出した。
単純明快な物理法則。
この『若返った肉体』のバネと、重力のみを頼りに加速する。
「ギシャアアア!」
ベルゼブブが俺に反応し、黒い触手を無数に伸ばしてきた。
速い。
だが、弾幕に比べれば隙だらけだ。
俺はスライディングで一本目を潜り抜け(スパッツの摩擦熱を無視して)、二本目を横に飛んで回避。
三本目はナイフで受け流し、その反動を利用して懐に飛び込んだ。
「らぁっ!!」
ドスッ!!
俺のナイフが、ヘドロの皮膚を突き破り、その奥にある「核」に向けて強烈な衝撃波を叩き込んだ。
「グギャアアア!?」
ベルゼブブが悲鳴を上げる。
だが、浅い。
手応えが途中で消えた。
「……っ!?」
ヘドロ状の体表の奥で、黒い霧が一瞬だけ硬化していた。
魔力だけではない。衝撃そのものを、遅れて食っている。
俺の右手首に、逆流した衝撃が突き刺さった。骨の内側をハンマーで叩かれたような痛み。ナイフを握る指が、一拍だけ痺れる。
次の瞬間、ベルゼブブの触手が横から俺を払った。
回避は間に合ったが、完全ではない。
脇腹を掠めた衝撃だけで、小さな身体が床を転がり、培養槽の台座に背中から叩きつけられた。
『師匠!?』
「生きてる。……今のは悪い見本だ」
息が詰まる。肋骨は折れていない。たぶん。
以前の身体なら踏みとどまれた角度だ。だが今は違う。軽すぎる。受けた衝撃を殺し切れない。
俺は血の味を飲み込み、ベルゼブブの表面を見た。
硬化するのは、攻撃が入った一点だけ。
しかも反応に、ごくわずかな遅れがある。
「アーサー! こいつは物理にも対応する。だが、同時に二カ所は食えない。魔力を切れ! ただの鉄塊として叩き込め!」
「なるほど! 魔力を纏わねば吸収されぬ、という道理ですな!」
アーサーが即座に闘気を霧散させた。
並の剣士なら弱体化するところだが、こいつは「素」の筋力もゴリラ並みだ。
「うおおおおお! 物理攻撃ォォォ!!」
ドォォォォン!!
アーサーの大剣が、ベルゼブブの胴体を横殴りに吹き飛ばした。
魔力ゼロの、純粋暴力。
巨体が壁に叩きつけられ、研究所全体が揺れる。
黒い霧がアーサーの一撃に集まり、硬化する。
そのせいで、胸部の防御が一瞬だけ薄くなった。
「今だ!」
俺はその隙を見逃さなかった。
壁に埋まり、再生しようともがくベルゼブブの胸部。
そこに露出した赤黒い結晶体――ダンジョン・コアへ向けて、俺は跳躍した。
手には、先ほど「掃除」した警備兵から奪った手榴弾。
ピンを抜き、コアの亀裂にねじ込む。
「……あばよ」
俺はベルゼブブの顔面を蹴りつけ、後方へ離脱した。
ズドン!!!!
鈍い爆発音と共に、ベルゼブブの胸部が内側から弾け飛んだ。
再生する間もない、物理的なコアの破壊。
黒い霧が霧散し、巨体が崩れ落ちていく。
◇
「ば、馬鹿な……。私の最高傑作が……物理攻撃ごときに……」
崩壊する瓦礫の陰で、白衣の研究者が呆然と膝をついていた。
俺は彼の胸ぐらを掴み上げ、冷ややかな視線を送った。
「科学だの進化だの、御託はいい。……一つだけ教えろ。お前らのスポンサーは誰だ?」
「ひっ……!」
男が何事か言いかけた、その時。
ヒュンッ。
何処からか飛来した「何か」が、男の首を貫いた。
音もなく。正確に。
男は声も出せずに絶命し、その場に崩れ落ちた。
「……チッ、口封じか」
俺は即座に射線から身を隠し、視線を巡らせた。
だが、狙撃者の気配はない。
プロの仕事だ。
あるいは、最初からこの結末を含めての「実験」だったのか。
『師匠! 魔素濃度が限界突破してる! ここ、崩れるわよ!』
セナの警告通り、天井から巨大な瓦礫が降り注ぎ始めた。
これ以上の捜索は不可能だ。
「アーサー、撤収だ! 死体はそのままでいい!」
「了解! 隊長、掴まってくだされ!」
俺たちは崩れゆく研究所を後にした。
◇
数時間後。
現場は完全に封鎖されていた。
駆けつけたのは警察でもギルドでもなく、黒いスーツの集団――田中の部下たちだ。
「……やれやれ。君はいつも、我々の仕事を増やしてくれる」
地上に出た俺たちを出迎えた田中は、深いため息をついた。
だが、その表情はどこか安堵しているようにも見えた。
「礼は言わんぞ。……で、どうするんだ、これ」
「公式発表では『ガス爆発』と『カルト教団の集団自決』になります。君たちの関与は一切伏せますよ」
「助かる」
俺は短く答え、背を向けた。
遠くからは、アーサーがマスコミ相手に「偶然通りかかった私が、市民の安全を守りました!」と演説している声が聞こえる。
あいつは本当にブレない。
こうして、俺たちの「課外授業」は終わった。
黒幕の尻尾は掴み損ねたが、都市の危機は去った。
少なくとも、今のところは。
(……だが、終わっちゃいない)
俺は夜空を見上げた。
あの狙撃の腕前。
そして、『ウロボロス』という組織。
俺の「平穏な隠居生活」への脅威は、まだ潜んでいる。
「……帰るか。明日は学校だ」
俺はJKらしく鞄(中身は武器だらけだが)を担ぎ直し、帰路についた。
右手の親指の付け根に、ほんの少しだけしびれが残っていた。
以前ならここまで消耗しなかった。
この体が、確実に何かに削られている。
今夜、セナに連絡するか。
……いや、心配させるだけだ。もう少し様子を見る。




