第122話:データ拒絶
闇の中を滑る俺の視界は、非常用の赤いインジケーターの明滅によって、一瞬ごとに赤と黒に塗り潰されていた。
前方、距離5メートル。
アーサーの包囲網をすり抜けた一枚が、俺の正面に立ちふさがったもう一人と合流し、俺の進路を塞ぐようにして、黒い雷を纏ったダガーを構えている。
俺の身体は、彼らの重心の揺らぎだけで、次の踏み込みの角度を完璧に予測していた。
一歩。
華奢な、しかし無駄のない少女の足先が、コンクリートの床を音もなく捉える。
工作員の一人が、黒い雷を帯びた刃を、俺の胸元に向けて鋭く突き出してきた。
俺は力で受け止めず、上半身をわずかに右へ傾け、その突きを紙一重でかわす。
すれ違いざま、俺の右手が、工作員の右腕の手首を正確に掴み取った。
親指の腹で関節の隙間を押し込み、そのまま肩甲骨の可動域の限界まで、強引にねじ上げる。
メキリ、と。
肉と骨が悲鳴を上げる鈍い音。
工作員はダガーを取り落とし、そのまま床へと崩れ落ちた。
もう一人の工作員が、横から払い斬りを放ってくる。
俺はしゃがみ込み、その刃の風圧を頭上でやり過ごしながら、懐から抜き放った古い剪定鋏の刃先を、相手の膝の裏――外套の隙間から覗く、魔素の鎧の最も薄い関節の継ぎ目へと、躊躇なく突き立てた。
ズチュッ。
確かな手応えが、鋏の柄を通じて手のひらに伝わる。
工作員が短い悲鳴を上げて膝を折り、俺は立ち上がりざま、その顎に向けて右足の蹴りを叩き込んだ。
脳震盪を起こした工作員が、白目を剥いて床に転がる。
背後からは、アーサーの大剣が空気を切り裂く重苦しい風圧の音と、アリスのサブマシンガンが放つ正確な銃声が、等間隔で響いていた。
彼らに任せておけば、背後は安全だ。
俺は、首筋に当てられた簡易接続デバイス(コネクター)に、左手で触れた。
今も、俺の『戦闘最適化データ』が、敵のサーバーへと音もなく吸い上げられ続けている。
コンソールデスクの前。
久野原透は、青白いモニターの光を浴びながら、平坦な視線をこちらに向けていた。
「無駄な抵抗です、大尉。君が動けば動くほど、その高い適応率と戦闘最適化データは、私のサーバーへと完璧に蓄積されていく。……データが吸い上げられるほど、私の新秩序の完成度は高まるのですよ」
透の声は、どこまでも冷徹だった。
「お前たちのデータなんぞ、俺の人生の代わりにはならん」
俺は、首筋のデバイスを、左手で強引に引きちぎった。
皮膚が裂け、微かな血が滲むが、そんな痛みのノイズは無視する。
そして、一気にデスクへと肉薄した。
透の硝子玉のような瞳が、今度こそ、驚愕に大きく見開かれた。
俺は、右手の古い剪定鋏を、デスクの中央に鎮座するメインサーバーの、一番太い魔素同調回路の隙間へと、全力で突き立てた。
バシィィィン!
激しいスパークとともに、目も眩むような青白い光が炸裂した。
高濃度の魔素のショート。
デスクのモニター群が一斉に、激しい砂嵐を吹き散らし、次々と破裂音を立てて暗転していく。
吸い上げられ続けていたデータの送信が、物理的に、そして完璧に停止した。
「……っ」
透は、破裂したモニターの破片を避けるようにして、半歩、後ろへと下がった。
彼の端正な顔が、初めて、不快そうに歪む。
「……野蛮な破壊ですね、大尉。ですが、その程度の物理的な破壊は、想定の範囲内です」
透は、スリーピースのスーツの襟元を静かに整え、冷淡な声を響かせた。
「メインシステムは停止しましたが、すでに予備の再構成システムが、この施設の地下二階で自動起動しています。……データの吸い上げを再開するには、数十分のインターバルが必要ですがね。……ですが、その数十分の間に、君の助手の脳は、ロックの暴走によって完全に焼き切れることになる」
透は、デスクの横にある、チタン合金製の防護扉へと歩み寄った。
「私は、地下二階の予備制御室へと移行します。……時間は、あまり残されていませんよ、大尉。彼女を救いたければ、私を追って、地下二階へと来たまえ」
プシュー、と。
防護扉が開き、透は闇の向こうへと、静かに滑り込んで消えた。
直後、重厚な扉が、金属音を立てて完全に閉鎖される。
静まり返った制御室。
壊れた機器から吹き出す火花と、オゾンの混じった不快な煙だけが、赤く染まった室内に満ちていた。
俺は、剪定鋏を握り直した。
ポケットの中の端末が刻むカウントダウンは、すでに『14:45』を示していた。
セナの限界まで、あと、十四分。
「主君」
アーサーが、大剣を肩に担ぎ直しながら、俺の横に立った。
アリスもまた、空のマガジンを床へ落とし、新しいマガジンを叩き込みながら、俺を見つめる。
「追うぞ。……あの男の天秤を、今度こそ根元から叩き割る」
俺は短く告げ、閉ざされた扉の横の、予備のアクセス配管へと視線を向けた。
カウントダウンの数字は、無情にも、一秒ずつ滑り落ちていた。




