第121話:問いだけが残る
静まり返ったドーム状の空間に、剪定鋏の冷たい金属音が小さく響いた。
俺が抜き放った古い鋏の刃先は、青白いモニターの光を浴びて、凍りついたように冷たく光っている。
久野原透は、微かに細めた硝子玉のような瞳を、ゆっくりと元に戻した。
その端正な横顔には、俺の宣戦布告に対しても、やはり怒りや動揺の色は浮かばない。ただ、予定表の余白に新しいノイズが書き込まれたのを、淡々と確認するような冷徹さだけがあった。
「盆栽、ですか。……皇ハルト大尉。君がその小さな植木に、どれほどの自己同一性を見出しているかは分かりません。ですが、それすらも、義父の設計した『魔素適応プログラム』の副産物に過ぎないとしたら、君はどうしますか?」
透は、コンソールデスクからゆっくりと手を離した。
左胸のポケットから覗く、あの古い革製の手帳。義父の遺品。
彼の指先が、その手帳の表面をもう一度、今度は確かめるようにそっと撫でた。
「義父の遺した『魔素適応計画』の記録によれば、被験者の精神を安定させるための『錨』として、最も無害で、かつ集中力を要する作業を習慣化させることが推奨されていました。君が盆栽を趣味に選んだのも、実は、肉体の強制適応に伴う脳の崩壊を防ぐために、義父が君の潜在意識に植え付けた防御プロトコル(システム)に過ぎないのですよ」
脳の奥で、冷たい針が直接神経を突つくような、鋭い耳鳴りが走った。
俺の五十二年の人生。
戦場で泥水を啜り、無数の仲間を失い、ようやく掴み取ったはずの、あの静かな引退の日。
そのすべてが、彼らにとっては、ただの『実験の観察期間』に過ぎなかった。
そして、俺が唯一、自分の意志で選んだと信じていた、あのベランダの真柏を愛でる時間すらも。
白衣を着た男の、冷酷な設計図の上の、ただの一行に過ぎなかったというのか。
(俺の人生は、誰の意思で動いていたのか――)
喉の奥が、砂を噛んだように乾いていた。
俺が戦場で流した血も、失った仲間への悔恨も、すべてはあの『死神の解剖医』が書いた、一枚の設計図の上のインクに過ぎなかったのか。
その問いは、重い鉛のようになって、俺の胸の奥に深く、冷たく沈み込んでいく。
だが、俺は、ゆっくりと息を吐き出した。
肺を通る冷たい空気が、脳の芯を、静かに研ぎ澄ましていく。
「……なるほど。お前の義父は、随分と気の利く男だったらしいな」
俺はゆっくりと顔を上げた。
声のトーンから、あざとい少女の響きは完全に消え去り、静かで、平坦な、硬い老兵の響きだけがドームに満ちていく。
「だが、久野原。……たとえ、この趣味の始まりが仕組まれたプロトコルだったとしても、俺があのベランダで、土の匂いを嗅ぎ、朝の風の冷たさを肌で感じ、真柏の枝を愛おしいと思った実感だけは、お前たちの設計図のどこにも記録されていない。あの時間は、間違いなく俺のものだ」
俺は、剪定鋏を握る右手の力を、わずかに抜いた。
親指の腹が、刃の根元を支える位置。
誰に教わるでもなく、この華奢な少女の指先が、完璧な角度で柄を包み込んでいる。
「お前たちがどれほど精緻なデータを並べ立てようが、俺が鋏を握り、枝の曲がりを確かめたあの瞬間の手応えだけは、お前たちのサーバーのどこにも吸い上げられていない。……俺の人生を設計したつもりでいるなら、教えてやる。俺の命の値段は、お前たちの天秤には載らん」
俺がそう告げた瞬間、透の硝子玉のような瞳が、初めて、微かに細められた。
そして、ふっと、ため息を吐くようにして、コンソールデスクのキーを叩いた。
「感情は判断を曇らせる。……やはり、君は廃棄すべき『不良品』のようです、大尉」
透の言葉と同時に、ドームの天井から、けたたましい電子音が響き渡った。
キィィィィン――。
非常用の赤いインジケーターが、激しく明滅し始める。
ドームの四方の闇から、夜色に染まった魔素遮断外套を羽織った工作員たちが、音もなく滑り出てきた。
その数、六人。
全員の手には、不気味な黒い雷を纏ったタクティカル・ダガーが握られている。
「主君」
俺の背後で、アーサーが静かに一歩、前へ出た。
彼の大剣を握る両拳の力みは消え、代わりに、大剣の切っ先を床から数ミリだけ浮かせる、完璧な低姿勢を取っていた。
主君の言葉に深く納得した彼の目から、迷いは完全に消え去り、ただ「盾」としての静かな闘志だけが宿っている。
アリスもまた、サブマシンガンを構えたまま、その冷徹な青い瞳を細めた。
ハルトの「命の値段は天秤に載らん」という言葉が、かつて組織に切り捨てられ、使い捨ての駒にされかけた彼女自身の生存本能を、熱く揺さぶっていた。
彼女はサブマシンガンの安全装置を親指で静かに解除し、銃口を敵の工作員たちの眉間へと正確に配る。
「アリス、右の二枚を抑えろ。アーサー、中央の三枚を引きずり込め。……俺は、奥のシステムを叩き割る」
俺の脳が、かつて何度も繰り返したはずの「戦術」を、澱みなく口の端から吐き出していた。
ポケットの中の端末が刻むカウントダウンは、すでに『19:12』を示していた。
セナの脳波が、強制同期の負荷に耐えられる限界時間まで、あと、十九分。
「戦闘開始だ」
俺は、古い剪定鋏を逆手に握り直し、闇の中へと、静かに滑り込んでいった。




