第120話:実験第一号
青白いモニターの光が、久野原透の端正な横顔を冷ややかに照らし出していた。
壁一面に敷き詰められた魔素共鳴モニター群は、学園都市の防衛マップを刻一刻と更新し、不気味な等高線が脈動を繰り返していた。
俺の首筋に当てられた簡易接続デバイスからは、今も『戦闘最適化データ』が、敵のサーバーへと音もなく吸い上げられ続けていた。
三十分。
セナの脳波が、強制同期の負荷に耐えられる限界時間だ。
ポケットの中の端末が刻むカウントダウンは、すでに『19:45』を示していた。
「皇ハルト大尉。……君は、自分がなぜ若返ったのか、その真の理由を考えたことはありますか?」
透は、コンソールデスクに軽く手を置いたまま、平坦な声を響かせた。
その声の響きには、勝利を確信した者の驕りも、復讐を果たす者の熱狂もない。ただ、淡々と業務報告を読み上げるような、絶対的な冷徹さだけがあった。
「三十年前、君たちが深層の最深部で遭遇した、あの黒い霧を纏う怪物――リッチ。……あれは、単なるダンジョンのイレギュラーではありません」
透はゆっくりと、左胸のポケットへと手を伸ばした。
仕立てのいい黒いスリーピースのスーツ。そのポケットから、古い革製の手帳の角がわずかに覗いている。
三十年前、彼の義父である久野原幸夫が、実験データを几帳面に書き留めていた、あの遺品だ。
透の指先が、その手帳の表面にそっと触れた。
ほんの一瞬。
だが、彼はその手帳を開くことも、取り出すこともせず、すぐに指先を離した。
「個人名は感情を生みます。感情は判断を曇らせる。……私は、義父の遺した『魔素適応計画』を、この世界に正しく実装するための『管理者』に過ぎません。だから、私は義父の遺品に、私情を挟むつもりはないのです」
透は、光を通さない硝子玉のような視線を、俺へと真っ直ぐに向けてきた。
「三十年前、義父は軍の臨時アドバイザーとして君の部隊に潜り込み、君の肉体を観察していました。君の魔素に対する異常なまでの適応率。……それは、数万人に一人という確率で発生する、奇跡的な『標準サンプル』でした。だから、義父は仕組んだのです」
「……仕組んだ、だと?」
俺は、ポケットの中で剪定鋏の冷たい柄を握り締めながら、低い声で問い返した。
「ええ。リッチの魔素コアに、義父が独自に組成した人為的な術式コードを、直接『注入』したのです。……あのリッチが、死に際に君に放った『若返りの呪い』。あれは、自然発生した呪文などではありません。義父が設計した、肉体の魔素適応を強制的に開始させるための、極めて精密な『実験プログラム』だったのですよ」
脳裏の奥で、冷たい氷がみしみしと割れるような、鋭い痛みが走った。
あの日、リッチが死に際に吐き出した、あの言葉。
『……呪われよ。貴様のその、積み重ねた時を……奪ってやる……』
あの不気味な響きの裏に、白衣を着た男の、冷酷な笑みが重なる。
俺の五十二年の人生。
戦場で泥水を啜り、無数の仲間を失い、ようやく掴み取ったはずの、あの静かな引退の日。
そのすべてが、彼らにとっては、ただの『実験の観察期間』に過ぎなかったのだ。
「君の肉体は、三十年間、魔素に汚染されながらも、その高い適応率によって形状を維持し続けた。……そして、五十二歳の引退当日。高濃度の魔素を浴びることで、君の肉体は強制的に『初期化』され、最も魔素適応率が高かった十代の姿へと若返った。君の失われた五十二年の時間は、この『実験第一号』の耐久テストに過ぎません」
透は、淡々と、残酷な真実を言葉にしていく。
「あの日、君が遭遇した二体目のリッチが放った呪文こそが、三十年前に仕込まれたプログラムを起動させるための、最後の『鍵』だったのです。君は、最初から私たちの手のひらの上で、美しく設計された標本だったのですよ、大尉」
「……っ」
俺の背後で、アーサーの喉から、獣のような低い唸りが漏れた。
彼の大剣を握る両拳が、きしきしと音を立てて固く握りしめられ、血管が青く浮き上がっていた。
アリスもまた、サブマシンガンを構えたまま、その冷徹な青い瞳に、激しい動揺の光を宿していた。
だが、俺は、ただ静かに自分の白い手のひらを見つめていた。
華奢で、泥一つ付いていない、綺麗な少女の指先。
かつて無数の地獄を潜り抜け、銃のタコと硝煙の匂いにまみれていたはずの、俺の手。
俺の人生は、誰の意思で動いていたのか。
俺が戦場で流した血も、失った仲間への悔恨も、すべてはあの『死神の解剖医』が書いた、一枚の設計図の上のインクに過ぎなかったというのか。
喉の奥が、砂を噛んだように乾いていた。
右肩の奥に、かつてバジリスク戦で引き金を引いた瞬間の、あの骨がきしむような衝撃が、生々しい熱となって蘇っていた。
だが、その生々しい痛みの熱こそが、俺に、確かな現実の手応えを返してくれていた。
「……随分と、長い前置きだな、久野原」
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
声のトーンから、あざとい少女の響きは完全に消え去り、静かで、平坦な、硬い老兵の響きだけがドームに満ちていく。
「お前の義父が、俺の人生をどう設計したかは知らん。……だが、俺がこの手で育ててきた盆栽の、あの真柏の枝の曲がり方だけは、お前たちの設計図のどこにも書かれていなかったはずだ」
俺は、ポケットから古い剪定鋏を、音もなく抜き放った。
黒い金属の刃が、青白いモニターの光を浴びて、冷たく光る。
「お前たちが俺を『実験第一号』と呼ぶなら、上等だ。……その実験台が、お前たちの傲慢な設計図ごと、その歪んだ天秤を根元から叩き割ってやる」
俺がそう告げた瞬間、透の硝子玉のような瞳が、初めて、微かに細められた。




