第123話:セナの覚悟
学園の臨時防衛司令部。その一角に設置された、電磁的にも魔素的にも完全に隔離された特殊シールドルーム(クリーン・ブース)の中に、私はいた。
無機質なエアコンの駆動音と、私の頭部に取り付けられた電極から伸びる、脳波計の冷たい電子音だけが室内に響いている。
頭の奥が、じわじわと、焼けた鉄を直接押し当てられているように熱い。
久野原透が私の脳に刻み込んだ、あの不気味な共鳴同調の鍵。
それが、私の脳波を人質にするようにして、不規則なパルスを刻み続けていた。
目の前のモニターには、師匠たちの端末と同期したカウントダウンが『14:45』を示している。
残り、十四分四十五秒。
その数字が滑り落ちた瞬間、私の脳波計のモニターが一瞬、激しく乱れ、それから不自然なほどの静寂が訪れた。
「……師匠が、データを止めた」
私は、乾いた唇の端をわずかに動かして呟いた。
師匠が、首筋のデバイスを引きちぎり、メインサーバーを物理的に破壊したのだ。
私のために、自分の五十二年分の記憶が戻るかもしれない、あの第一の天秤を、師匠は迷うことなく叩き割ってくれた。
ガラス窓の向こう。
白髪をかきむしり、血走った目でモニターを凝視していた田中さんが、スピーカーを通じて私に声をかけてきた。
『如月博士、聞こえますか! ハルカちゃんがメインサーバーを破壊し、データの吸い上げは停止しました。……ですが、久野原透は地下二階の予備システムへと移行した。予備システムが起動すれば、データの吸い上げが再開され、同時に、あなたの脳の鍵が暴走を開始する。……猶予は、もう十四分もありません!』
田中さんの声は、今にも擦り切れそうなほど悲痛だった。
彼のデスクの上に並ぶ、何本もの栄養ドリンクの空き缶が、この数日間の地獄のような激務を物語っている。
「田中さん」
私は、電極のコードが突っ張るのを無視して、ゆっくりと上体を起こした。
「私の解除より、師匠の戦闘を優先して」
『な、何を言っているんですか! あなたの脳波が停止すれば、今後のダンジョン対策における魔素同調理論のすべてが失われる。国家としても、個人としても、あなたを死なせるわけにはいかない!』
「私はもう、研究者として黒幕の道具にはならない」
私は、真っ直ぐに田中さんを見据えた。
「師匠は、私のために自分の記憶を諦めようとした。……でも、師匠の五十二年の時間は、師匠だけのもの。私が、師匠を『師匠』って呼んで、一緒に冷たいお茶を飲んだ、あの日常は偽物なんかじゃない。私の命なんかと引き換えに、あの男たちの歪んだ天秤に、師匠の人生を載せさせちゃダメ」
私、白衣のポケットから、一本の小さなガラスアンプルを取り出した。
中に満たされているのは、淡い琥珀色の液体。
師匠のために開発していた、あの抑制薬の、さらに調合を極限まで高めた『完成形』。
『如月博士……それは、まさか』
「これを使えば、脳の魔素活性を一時的に完全にシャットダウンできる。……私の脳の『鍵』の暴走も、一時的に、完全にフリーズさせられるはず」
『そんな無茶な! それはハルカちゃんの特異体質に合わせて調合された薬だ。通常の人間であるあなたが服用すれば、脳の神経細胞にどれほどの負荷がかかるか……最悪の場合、そのまま目覚めなくなる可能性すらある!』
「十四分で脳を焼き切られるよりは、マシだよ」
私は、アンプルの金属キャップを親指で弾き、ためらうことなく、その琥珀色の液体を一気に口の中へと流し込んだ。
味は、ひどく苦く、そして、氷を直接噛み砕いたような金属的な冷たさがあった。
胃に落ちた瞬間、内臓の底からじわじわと凍てつくような冷気が立ち上り、それが首筋を駆け上がって、脳の奥へと達する。
「あ……、つ……っ!」
頭蓋骨の奥を、太い針で直接かき回されているような、凄まじい激痛。
私はベッドの上に身を屈め、シーツを固く握りしめた。
脳波計のモニターが、けたたましい警告音を吐き出す。
だが、次の瞬間。
ピーーーーーー、と。
激しく乱れていたノイズの波形が、ピタリと、不気味なほど静かに、一本の平坦な線を描いて静止した。
フリーズ、成功。
私の脳の『鍵』は、一時的に、完全に休眠状態へと移行した。
「……これで、師匠は、私のことを気にせず戦える」
ろれつの回らない舌で、かろうじてそれだけを口にする。
急速に、頭の芯が凍りついていく。
視界がぐにゃりと歪み、ガラス窓の向こうの田中さんの顔が、二重にも三重にもブレて見えなくなった。
けれど、私の胸の奥には、確かな誇りと、あの銀髪の師匠への絶対的な信頼だけが、温かく残っていた。
(師匠……。あとは、頼んだよ)
私は、重い瞼を閉じ、泥のような深い眠りの底へと、静かに意識を沈めていった。




