第115話:継承者
作戦決行を四日後に控えた、穏やかな午後のことだ。
雨上がりの湿った空気はすっかり消え去り、寮の四〇二号室の窓から差し込む光は、妙に白く、静かだった。
俺はローテーブルを挟んで、パイプ椅子に深く腰掛けた田中と対峙していた。
田中の前に置かれたスチール製の灰皿には、火をつけずにへし折られた煙草がまた一本、虚しく転がっている。
彼の側頭部を白く染める髪の数は、昨日よりさらに増えたように見えた。手元に置かれた栄養ドリンクの空き缶が、彼の内臓の悲鳴を代弁している。
国家の裏側を泥水に塗れて支えてきた男の疲労は、今や隠しようとしても隠しきれないレベルに達していた。
「……アーサーから聞きましたか。ウロボロス首魁の本名が、久野原透である件」
田中が、重いファイルをテーブルの上に置いた。
表紙には『極秘・ウロボロス中枢構成員』の赤いスタンプが押されている。
「ああ。三十年前に死亡したとされる久野原幸夫の養子であり、弟子だと。事件当時はまだ学生で、現場にはいなかったとも聞いた」
「ええ。我が課のデータベースと、アリスが解読した暗号データを突き合わせ、その裏付けが取れました。……これが、彼の公式な経歴書です」
俺は、差し出された資料の顔写真を見つめた。
整った、しかし一切の感情を綺麗に削ぎ落としたような、無機質な目をした男。
首魁、久野原透。
あの公開メッセージで、俺に三つの天秤を突きつけてきた男の素顔だった。
「三十年前の『リッチ事件』当時、彼は都内の大学で高度情報工学と魔素物理学を専攻していました。……彼は、義父の遺した『魔素適応計画』を組織の理念として継承し、世界規模に拡張しようとしている。個人的な怨念ではなく、冷徹な『管理者』としてね」
「個人的な怨念ではない、か」
「ええ。彼にとって、貴女――皇ハルトという存在は、復讐の対象ではありません。……ただの、義父が遺した『最も完成された実験第一号』に過ぎないのです」
田中の声は、乾いた砂のようにカサついていた。
「最も完成された実験第一号」
その言葉が、俺の胸に静かに、しかし冷たく着弾した。
俺の失われた五十二年の時間も、若返りの呪いに翻弄された日々も、彼らにとっては観察記録の最初の数行に過ぎない。
三十年前に仕込まれた歪んだ種が、今、世界規模のカタストロフとして発芽しようとしている。
「久野原透の目的は、義父の遺志を継ぎ、人類を強制的に魔素に適応させる『新秩序』の構築。……その完成のために、貴女の身体に刻まれた戦闘最適化データと、セナちゃんの魔素理論が必要なのです」
「俺の五十二年を奪い、セナの脳を人質に取り、それで新しい世界を作る、と。……随分と身勝手な設計図だな」
俺は、冷めた煎茶を一口啜った。
喉の奥に残る苦味が、脳の芯を冷たく研ぎ澄ましていく。
怒りはなかった。
ただ、戦況を冷静に分析する老兵の冷徹さが、胸の奥で静かに牙を研いでいる。
ふと、隣の部屋から、カタカタと規則的なキーボードの打鍵音が聞こえてきた。
アリスが、セナの残した解除プログラムの並列処理を走らせているのだ。
「アリスはどうだ」
「不眠不休でキーボードを叩いていますよ。……彼女も、自分の命の値段を他人に決められるのが、よほど気に入らないようでね。ウロボロスの暗号キーを、一枚ずつ強引に剥ぎ取っています」
田中は、眼鏡のブリッジを指先で押し上げながら、小さく苦笑した。
「アーサー氏の突撃部隊も、旧政府施設地下への突入経路の確保を完了しました。……四日後の深夜、作戦開始と同時に、彼らが正面の防衛ラインを強引にこじ開けます。成功率は、依然として四割ですがね」
「四割か。……上等だ。戦場じゃ、五割を超える賭けなんて滅多に転がっちゃいない」
俺は、ローテーブルの上に置かれた古い鋏に視線を落とした。
昨日、アーサーが帰った後に研ぎ澄ました、黒い金属の刃。
その冷たい金属の感触が、指先を通じて俺の意識に深く沈み込んでいく。
この華奢な、泥一つ付いていない白い指先。
だが、この鋏の柄に指をかける瞬間だけは、俺の五十二年の人生が、確かに血の通った歴史としてここに存在していたという、唯一の証明だった。
久野原透。
お前が俺の人生を『実験台』として設計したというなら。
俺は、俺自身の鋏で、その傲慢な設計図ごと、三十年分の余計な枝葉をすべて切り伏せてやる。
「田中」
「はい」
「四日後、その『新秩序』とやらの設計図を、まとめてゴミ箱に放り込んでやる」
俺は冷めきった煎茶を一気に飲み干し、空になった湯呑みをテーブルに置いた。
コト、と乾いた音が、静かな部屋に小さく響き、そのまま消えた。




