第114話:三十年前の回想(その二)
作戦決行を五日後に控えた、雨上がりの朝。
冷たい空気が、ベランダの窓の隙間から細く滑り込んできていた。
俺はローテーブルの前に座り、真柏の鉢にじっと視線を落としていた。
昨日、アリスがセナの端末から引き出した、三十年前の作戦名簿。
そこに残されていた『久野原幸夫』という、抹消されかけた四文字。
その名前を頭の中で繰り返すたびに、脳の奥で、凍りついた記憶の底がみしみしと軋むような不快な痺れが断続的に走る。
コン、コン、と。
静かな部屋に、控えめなノックの音が響いた。
入ってきたのは、アーサーだった。
制服の上に薄いコートを羽織っている。その肩のあたりが、外の霧雨でわずかに湿っていた。
彼は部屋に入るなり、俺の前で直立不動の姿勢を取った。
「主君。……お求めの件、調べてまいりました」
「三十年前の生存者の話か」
「はい」
アーサーはコートを脱ぎ、椅子の背に掛けてから、俺の対面に腰を下ろした。
彼の表情には、いつもの大袈裟な忠誠心や涙もろさはなく、現役のSランク冒険者としての、硬く冷たい光が宿っていた。
「田中のところの現地追跡班と、私の個人的な伝手を繋ぎ、地方で暮らしている元傭兵の二名から、今朝がた有線で証言を回収いたしました。……彼らは、当時の『研究員』のことを、よく覚えていました」
アーサーは懐から、一枚の古いメモ用紙を取り出し、テーブルに置いた。
そこには、震える手で書かれたような、乱れた文字がいくつか並んでいた。
「彼らの証言によれば、リッチ戦の前夜、ベースキャンプの天幕で、隊長――主君と長く話し込んでいた研究員がいたそうです。他の隊員が寝静まった深夜、二人はストーブの火を囲み、夜明け前まで言葉を交わしていた、と」
「……俺と、その久野原がか」
「はい。その男の名前こそ、久野原幸夫。……当時、彼は軍の臨時アドバイザーとして配属されていましたが、その不気味なほど冷徹な目つきから、隊員たちの間では『死神の解剖医』と陰口を叩かれていたそうです」
死神の解剖医。
その痛々しい二つ名を聞いた瞬間、俺の右手の指先が、無意識のうちに机の上の湯呑みの縁をなぞった。
――熱い、お茶の温度。
ストーブの爆ぜる、パチパチという音。
そして、暗闇の中で対峙していた、白衣を着た男の、温度を完全に剥ぎ取られたような低い声。
『ハルト大尉。君の肉体は、魔素に対する適応率が、他の個体とは桁違いに高い。……実に、美しいサンプルだ』
脳裏の霧の向こうから、冷たい幻聴が、じわりと染み出すようにして蘇る。
俺は、その声を知っている。
三十年前のあの夜、俺は確かに、その男とストーブの火を挟んで対峙していたのだ。
「……その久野原は、作戦の後にどうなった」
俺が問うと、アーサーは、さらに声を潜めて答えた。
「そこが、最大の違和感です。……久野原幸夫は、あのリッチ戦の直後、部隊が半壊した混乱に紛れるようにして、消息を絶っています。そして、事件から三日後、軍の公式記録には『作戦中の事故により死亡』と処理されました」
「死亡、か。死体は確認されたのか?」
「いいえ。記録上は『魔素汚染による肉体の完全霧散』とされています。つまり、遺体は残っていない。……ですが、当時の同僚の一人は、こう言っていました。
『あの男が死ぬはずがない。リッチが倒れた瞬間、奴は防護壁の向こうで、何かを拾い上げて笑っていた』と」
拾い上げて、笑っていた。
俺は、自分の右肩の古傷を、左手で強く押さえた。
あの日、リッチが死に際に放った、あの『若返りの呪い』。
それは、久野原が仕組んだ実験の、最初の起動スイッチに過ぎなかった。
男は、俺が呪いを受けるのを見届け、その『成果』を手にして、戦場から姿を消したのだ。
「死亡記録は、偽装だな」
「ええ。十中八九、国や軍の監査の目を逃れ、地下に潜るための偽装工作でしょう。……そして、その久野原幸夫の『研究』を、三十年後の今、継承しているのが――」
「ウロボロスの首魁、久野原透」
俺が名前を口にすると、アーサーは静かに、しかし深く頷いた。
「久野原透は、幸夫の養子であり、弟子。……首魁本人は三十年前の事件当時はまだ学生で、現場にはいませんでした。ですが、義父の遺した『魔素適応計画』を組織の理念として継承し、世界規模に拡張しようとしている」
線が、繋がった。
三十年前の戦場で仕込まれた種が、三十年後の今、世界を巻き込む大扉の開放計画へと昇華されている。
俺の失われた五十二年の時間は、彼らにとって、ただの『実験第一号の観察記録』に過ぎなかったのだ。
「……胸糞の悪い話だ」
俺は、冷めきった煎茶を、一気に喉の奥へ流し込んだ。
苦味だけが、喉の奥に冷たく残る。
「主君。……五日後の作戦、私も同行します。あの首魁の喉元を、我が大剣で叩き斬るために」
「お前の剣も借りる。……地上はレオたちに任せた。これは、俺たちの『落とし前』の話だからな」
俺がそう告げると、アーサーの瞳に、静かで揺るぎない闘志が宿った。
彼は深く頭を下げ、そのまま部屋を後にした。パタン、と扉の閉まる音が、廊下に短く吸い込まれて消える。
一人になった部屋で、俺はローテーブルの上に置かれた古い鋏をそっと手に取り、指先でその冷たい金属の重みを確かめた。
誰に決められた命の値段もない。
この歪んだ因縁の枝を、根元から綺麗に切り落とすのは、他でもない俺の手だ。
五日後。
その時が来る前に、まずは手元の刃を研いでおく。
それが、老兵に残された、唯一の正しい時間の使い方だった。




