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第113話:三十年前の回想(その一)

 深夜の四〇二号室。病院から戻った俺は、冷めた煎茶を口に含み、喉の渇きを潤していた。

 ベランダの窓を叩く風は冷たく、秋の深まりを告げている。


 首魁への偽の取引応諾信号は、先ほど田中の手によって極秘裏に送信された。

 「身柄と戦闘データの提供に合意する」という、冷徹な事務文書を装った罠。

 これで敵の警戒は一時的に緩む。猶予は五日。それまでに、俺たちは敵の喉元を掻き切るための刃を研がねばならない。


 「……これで、第一段階はクリアね」


 ローテーブルを挟んで、アリスがセナのタブレット端末を叩いていた。

 深夜の立ち入りは本来なら規則違反だが、一刻を争う状況を鑑み、田中が「共同作業」として例外的にアリスの同席を黙認したのだ。

 アリスが本部のサーバーを経由させ、セナの残した解析プログラムを並列で走らせることで、暗号化されたログの防壁を一枚ずつ剥ぎ取っていく。


 「解凍できたわ、ハルト」


 アリスが、画面を俺の方へとスライドさせた。

 彼女の指先が、フォルダの最深部に置かれた、古いスキャン画像データを指し示す。


 「セナが倒れる直前まで調べていた、三十年前の『リッチ事件』の軍事アーカイブよ。……彼女、防衛省の古い教務システムから、当時の作戦参加者の名簿を強引に引っ張り出していたみたいね」


 画面に表示されたのは、黄ばんだ紙の報告書をスキャンした、白黒の画像だった。

 

 三十年前。

 俺がまだ若く、傭兵として中東の地獄を這いずり回っていた頃。

 名もなき最深部で遭遇した、あの黒い霧を纏う怪物――リッチ。

 

 俺は、画面に並ぶ文字を、静かに目で追った。

 作戦参加者のリスト。

 先頭には、若き日の俺の名前。そして、俺の部下たちの名前が几帳面に並んでいる。

 だが、そのリストの最下段、予備役や後方支援の枠の中に、一つだけ、不自然な「空白」があった。


「この一行だけ、名前と所属が完全に抹消されているわ」


 アリスが、その空白の行を拡大した。

 

「抹消の手口が、軍の公的な処理じゃない。データベースの根幹を直接書き換える、ハッキングによる消去よ。……でも、セナは諦めなかった。消去されたログの『残骸』から、当時のシステムアクセス権限の履歴を逆算して、この人物の仮登録IDを特定したの」


 アリスがキーを叩くと、空白の行の上に、一つの名前が浮かび上がった。


 ――久野原幸夫。


 聞いたことのない名前だった。

 脳内の白黒の戦術マップを隅々まで探してみても、その四文字に一致する「記号」はどこにも存在しない。


「この男は、軍の正規の兵士じゃないわ」


 アリスは、セナが書き残していたメモを画面に展開した。


「三十年前の作戦直前、特殊作戦支援を装って、外部から臨時でチームに配属された『研究員』よ。……当時のハルトの部隊が、ダンジョン深層の魔素流を観測するための、技術アドバイザーという名目でね」


「アドバイザー、か」


 俺は、冷めた煎茶をもう一口啜り、喉の奥を湿らせた。

 

 三十年前の戦場の匂いが、記憶の霧の向こうから、かすかに漂ってくるような気がした。

 あの日の、湿ったコンクリートの感触。

 

「セナのメモは、ここからが本番よ」


 アリスの声が、一段と低くなった。


「彼女、あのリッチがハルトに放った『若返りの呪い』の術式コードを、現代の魔素工学の数式に翻訳して、この久野原の専門分野と照合したの。……結果は、完全な一致。

 リッチが使った呪文は、モンスターが本能で放ったものではないわ。

 久野原が事前に設計し、リッチの魔素コアに直接『注入』していた、人為的な魔素適応プログラムだったのよ」


 アリスが、タブレットの画面に、さらに複雑な魔素波形のシミュレーションを展開する。


「三十年前の時点で、久野原はあなたの身体に、その『若返りの術式コード』を実験プログラムとして密かに仕込んでいた。……でも、そのプログラムはあなたの肉体の中で、三十年間ずっと眠ったままだったの」


「眠っていた?」


「ええ。起動するための『トリガー』が足りなかったから。……そして、五十二歳の引退当日。あの日、あなたが遭遇したリッチが、死に際に放った最後の言葉――あの魔素波長こそが、三十年越しの呪いを起動させるための『鍵』だったのよ」


 ――ピキ、と。


 脳の奥で、冷たい氷がひび割れるような、鋭い痛みが走った。

 

 俺は、無意識のうちに、右手の指先で自分の首筋を強くさすっていた。

 あの日、リッチの呪いを浴びた首筋の皮膚が、内側からカッと熱を帯びて疼く。

 三十年前、あの薄暗いダンジョンの底で、俺の身体に刻まれていた「標本の烙印」が、肉体的な拒絶反応を示して熱くなっているのが分かった。


 呪いは、偶然の事故ではなかった。

 

 俺が五十二年の人生を奪われ、華奢な少女の肉体へと若返らされた、あのすべての厄災の始まり。

 それは、三十年前のあの日に仕込まれた種が、三十年後の引退日に発動するように設計されていた、あまりにも冷酷な『実験』だったのだ。


「……俺は、最初から標本だったというわけか」


 俺の呟きは、怒りも、焦りもなかった。

 

 ただ、戦況を冷静に分析する斥候のように、あまりにも平坦で、冷たい響き。


 アリスは何も言わなかった。

 ただ、ローテーブルの上の、あの毒々しいグミの袋を静かに握りしめ、その指先をかすかに震わせていた。

 かける言葉も見つからず、自分の大好きなカラフルなグミの袋を握りしめる彼女の指先から、他人の命を天秤にかける者への、静かで激しい怒りが伝わってくる。


 窓の外では、風が一段と強く吹き荒れ、ベランダの黒松の葉を、ざわざわと激しく揺らしていた。


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