第112話:拒絶できない選択
深夜二時。集中治療棟の面会待合室は、自動販売機の低いハム音だけが響く静寂に包まれていた。
スチール製の長椅子に腰掛けた俺たちの影が、蛍光灯の白い光によって床へ長く引き伸ばされている。
俺は、ポケットから取り出したセナのタブレット端末を、田中の前に置いた。
画面はすでに暗転している。だが、そこに記録されていたセナの動画メッセージの内容は、この場にいる全員の脳裏に、消えない重みとなって共有されていた。
「……セナちゃんらしい、と言えばそれまでですがね」
田中が、深く刻まれた眉間の皺を指先で押さえながら、かすれた声で呟いた。
彼の前に置かれた灰皿には、火を点けずにへし折られた煙草が二本、虚しく転がっている。
「『私のことは気にせず、自分の戦いをして』。……あの状況で、そんな無茶な遺言を残す助手がどこにいますか。ですが、彼女の言葉通りに取引を拒絶すれば、七日後には彼女の脳波は完全に停止する。……これは、最初から拒否という選択肢を奪われた、最悪の盤面ですよ」
田中の言う通りだった。
セナは「自分で鍵をこじ開ける」と言った。
だが、彼女の脳波計のノイズは、今も刻一刻と大きくなっている。
首魁の持つ解除コードがなければ、彼女の脳は一週間以内に物理的に焼き切れる。それが、この取引の冷酷なタイムリミットだった。
「主君」
俺の斜め後ろに直立不動で控えていたアーサーが、一歩前へ出た。
彼の太い両拳は、血が滲むほど強く握りしめられている。
その節々が、メキメキと嫌な音を立てて白く浮き上がっていた。
「……私は、主君の御身を、あの首魁に引き渡すことだけは、断じて容認できません。主君の戦闘技術は、かつて中東の地獄を終わらせ、我々部下を生かすために磨き上げられた誇り高き牙です。それを、新秩序などという独善的な理念の礎にさせるわけにはいかない。……たとえ世界を敵に回そうとも、私は主君の盾として、その身を守り抜きます」
アーサーの言葉には、一切の迷いも、妥協もなかった。
彼にとって、俺という存在は、何よりも優先されるべき絶対の「主君」なのだ。
たとえその代償として、セナの命が失われることになろうとも。
「アーサーの言う通りよ」
壁に背を預けていたアリスが、鋭い視線を床に落としたまま、冷たい声で言った。
彼女は、自分の手首に巻かれていた簡易拘束ベルトの痕を、細い指先で静かになぞっている。
「シルバーバーグの合理主義――組織の論理に照らし合わせれば、この取引は受けるのが当然の最適解よ。ハルトという不確定要素を差し出し、セナという有能な頭脳を回収して、データを渡す。……でも、私はそんな組織の都合で動く天秤は、もう御免だわ。誰かの都合で命の値段を決められるのは、ロサンゼルスだけで十分。……ハルト、あなたをあの男に渡すなんて、私は絶対に嫌よ」
アリスは顔を上げ、俺の目を真っ直ぐに見据えた。
彼女の硝子のような青い瞳の奥には、かつて組織に切り捨てられ、使い捨ての駒にされかけた者としての、激しい拒絶の光が宿っていた。
アーサーの絶対的な忠誠。
アリスの、天秤に対する強烈な拒絶。
そして、セナの、命をかけた自己犠牲。
俺は、自分の華奢な白い両手を見つめた。
(全員が、俺のために、自分の譲れないものを賭けて戦おうとしている)
記憶を失った俺にとって、彼らとの五十二年分の感情の色彩は、いまだ白黒の戦術マップのままだ。
だが、そのマップの上に、今、彼らの生々しい「生命の熱」が、確かに色を塗り重ねていくのを感じていた。
「……田中」
俺は、静かに顔を上げ、押し黙ったままの田中を見つめた。
「お前はどうだ。国家の番人として、俺を首魁に渡すか?」
田中は、ゆっくりと指先を離し、血走った目で俺を見返した。
「……渡しませんよ、七瀬さん。あなたを失えば、この国の防衛バランスは一瞬で崩壊する。ですが、セナちゃんを死なせるわけにもいかない。彼女の魔素同調理論は、今後のダンジョン対策における唯一の希望です。……国家としても、個人としても、どちらも失うわけにはいかない」
田中は、スチール製の机の上で、拳を一度だけ強く叩いた。
「ですから、正面突入と取引の両刀で行きます」
「両刀、だと?」
「ええ。首魁の指定する取引会場へ、七瀬さんには『取引に応じるフリ』をして潜入してもらう。敵が彼女の戦闘データを吸い上げ、セナちゃんの解除コードを起動させる、その一瞬の隙を狙って――」
田中は、懐から一枚の暗号化された地図データを展開した。
「アリスと本部のハッキング班、そしてアーサーの突撃部隊が、会場の物理的な制御室を強襲、制圧する。敵のシステムを物理的に遮断し、セナちゃんの解除キーを強引に奪取、同時に七瀬さんを救出する。……極めてリスクの高い、実戦的な強襲作戦です」
俺は、その地図データをじっと見つめた。
(取引会場は、旧政府施設の地下。退路は一本。敵の防衛戦力は未特定。……成功率は、良くて四割というところか)
だが、俺の身体は、その過酷な数値を聞いても、一瞬も怯まなかった。
むしろ、首筋のあたりが、戦場の冷たい風を浴びたときのように、心地よく引き締まっていく。
「……いい作戦だ。四割あれば、突っ込むには十分すぎる」
俺は、右手の指先をそっと開き、握り直した。
セナを庇った右腕の痛みが、かつてバジリスク戦で痛めた右肩の古傷へと、じわじわと熱を伝えていく。
五十二年の記憶が戻らなくとも、俺の身体には、彼らと共に戦い、生き抜いてきたという、消えない技術の「幹」が通っている。
「田中。作戦の決行はいつだ」
「首魁の指定した期限は七日後。ですが、セナちゃんの脳波の減衰速度を考慮すると、猶予は五日。……五日後の深夜、作戦を開始します」
「了解だ。……アーサー、アリス。武器の手入れをしておけ。五日後、あの首魁の天秤を、根元から叩き割るぞ」
「「承知!」」
二人の声が、深夜の待合室に、硬く、重く響き渡った。
窓の外では、いつの間にか雨が止み、雲の隙間から、冷たい秋の星光が差し込み始めていた。




