第111話:天秤の三つ目
集中治療室のガラス窓を叩く、雨の音がかすかに聞こえていた。
深夜の病室は、人工呼吸器の規則的な排気音と、脳波計が刻む電子音だけが静かに響いている。
俺は、ベッドの脇に置かれた丸椅子に座り、手元にあるセナのタブレット端末を見つめていた。
画面には、彼女が倒れる直前――研究所で小型共鳴塔が爆発した、あの数分後に、自室のサーバーへ送信していた暗号化ログが展開されている。
アリスが田中の目を盗んで、この端末を俺に手渡してくれた。
セナの端末だ。俺が画面に指を触れた瞬間、センサーが俺の指の腹のタコと、若返った肉体の固有魔素波形を検知した。
ピッと短い電子音が鳴り、セナが仕込んでいた生体認証が自動的に解除される。
「師匠専用」のプロトコルが走り、最上位のフォルダに置かれていた動画ファイルが自動的に展開された。
再生ボタンを押す。
ノイズ混じりの画面の中に、いつもの白衣を着たセナが映し出された。
背景は、研究所の爆発の直後、一時的に避難していた救急車の中らしい。
彼女の額には、まだ血の滲む包帯が巻かれていた。
『……テステス。師匠、聞こえてる?』
画面の中のセナは、少しだけ無理をしたような、不自然な笑顔を浮かべていた。
彼女の指先が、タブレットのカメラのレンズを少しだけ直す。
『この動画が自動で師匠の端末に転送されてるってことは、私は今、たぶん眠っちゃってる。……ごめんね、おせっかいな助手で』
セナは一度、小さく咳き込んだ。
その呼吸の浅さに、俺の胸の奥が、冷たい針で刺されたようにきしむ。
『実はね、師匠。……私、あの爆発の瞬間、自分が浴びた魔素の波形を、自分の計測器でリアルタイムに拾ってたの。
あの青い光は、ただの暴発の余波じゃない。
私の脳の、魔素波長を処理する領域に、ピンポイントで干渉する共鳴同調の「鍵」だった。
……私は、あの首魁のメッセージを聞く前から、自分がどうなるか、分かってたんだ』
セナは、画面の向こうから、俺の目を覗き込むようにして、静かに言葉を続けた。
『首魁の狙いは、私が設計した魔素理論のコア。
私の脳を、彼らの管理ネットワークの受信器にすることで、いつでも私の脳波を人質に取れるようにしたの。
……師匠に、このことを言ったら、師匠は絶対に自分の記憶を諦めて、私を助けようとしちゃうでしょ?
だから、隠してた。
師匠の五十二年分の記憶は、師匠のものだもん。
私のせいで、それを諦めてほしくなかったの』
セナの瞳から、一滴だけ、涙が頬を伝って落ちた。
けれど、彼女はすぐにそれを袖口で拭い、いつものマッドサイエンティストのような、悪戯っぽい笑みを浮かべてみせた。
『でもね、師匠。……私、ただ守られるだけの女の子じゃないよ。
私、師匠の「助手」だもん。
だから、もし首魁が取引を持ちかけてきても、絶対に首を縦に振っちゃダメ。
私の脳の鍵は、私自身が自分で解析して、いつか絶対にこじ開けてみせるから。
……だから、師匠は、師匠の戦いをして。
約束だよ、師匠』
プツン、と。
そこで動画は途切れ、暗転した画面に、俺の銀髪の輪郭だけがぼんやりと映り込んだ。
「……バカ野郎が」
俺は、掠れた声でぽつりと呟いた。
自分自身の脳が焼かれるかもしれないという極限状態で、この少女は、俺の記憶の回復を最優先に考えていたのだ。
俺を「師匠」と呼び、頼まれてもいないのにリハビリの薬を作り、最後まで俺の退路を心配し続けた、おせっかいな助手。
その少女の、あまりにも健気で、あまりにも無茶な自己犠牲。
俺は、ゆっくりと立ち上がり、ガラスの向こうのセナを見つめた。
彼女の脳波計が刻む、冷たいブルーライト。
その規則的な波形の隙間に浮かび上がる、不自然な空白のノイズは、今や彼女自身の脳の機能と同期し、刻一刻と彼女の精神を蝕んでいる。
セナの命と、俺の記憶。それを天秤にかけさせ、さらに俺の牙という代償を要求する、首魁の歪な取引。
首魁が提示した、三つの過酷な条件。
俺の失われた五十二年分の記憶。セナの脳に刻まれた、解除不能な「鍵」の無効化。そして、俺の身体に刻まれた戦闘最適化データの提供と、彼らの新秩序設計への協力。
どれを捨て、どれを選ぶか。
俺の頭の中にある白黒の戦術マップには、その過酷な三者択一が、冷徹な戦況報告のように並べられている。
だが、俺の身体は、その記号的な情報とは無関係に、すでに次の「戦術」を組み立て始めていた。
(取引に応じるフリをして、敵の懐に潜り込む。……それ以外に、この三つの条件をすべて叩き割る方法は、戦場には存在しない)
俺は、右手の指先をそっと開き、握り直した。
セナを庇って負傷した右腕の痛みが、かつてバジリスク戦で痛めた右肩の古傷へと伝染していく。
あの日、空中で対物ライフルをぶっ放したときの、骨がきしむような衝撃。
その「痛みの輪郭」をなぞるようにして、右肩の奥が、じわじわと鈍い熱を帯びて疼いていた。
五十二年の記憶が戻らなくとも、俺の身体には、彼らと共に戦い、生き抜いてきたという、消えない技術の「幹」が通っている。
俺は、静かにタブレットをポケットにしまい、病室の扉を開けた。
廊下に出ると、直立不動の姿勢で控えるアーサーと、鋭い眼光を周囲に走らせるアリス、そして、深く刻まれた眉間の皺を指先で押さえる田中が、静かに俺の言葉を待っていた。
「田中」
俺は、静かに、だがはっきりとした声で、白髪の増えたエージェントを見据えた。
「……取引の準備をしろ。首魁の指定する場所へ、俺が行く」
田中の顔が、一瞬だけ驚愕に歪み、それから、何かを諦めたように、深く、深く頷いた。




