第110話:首魁の公開メッセージ
学園都市中央病院。
深夜の集中治療棟は、無機質な消毒液の匂いと、冷たいエアコンの風だけが循環する沈黙に支配されていた。
ガラスで仕切られた個室の向こう。
青白い照明の下で、如月セナが横たわっていた。
頭部に巻かれた包帯、鼻腔に差し込まれた吸入チューブ、そして彼女の細い手首から伸びるいくつかの配線が、脈動する波形となってモニターの暗い画面を明滅させている。
「……目覚める兆候は、ありません」
ガラス窓の前に立つ俺のすぐ後ろで、田中が掠れた声で言った。
彼の短い髪に走る白髪は、病院の蛍光灯の下で、まるで削り出された針のように冷たく光っていた。
「脳の魔素共鳴パターンが、完全なループ状態に入っています。セナちゃんの意識は、外界からの刺激を完全に遮断し、自分自身の脳波の中で固着している。……まるで、誰かが設計したプログラムのバグに、そのまま閉じ込められてしまったかのように」
俺は、ポケットの中で両手を静かに握りしめた。
俺がセナを庇ったとき、腕の隙間をすり抜けて彼女の頭部へと滑り込んでいった、あの、静電気じみた青い光。
あの瞬間の手のひらの痺れが、今も右手の指先に、消えない嫌な熱となってへばりついている。
俺は、白黒の図面を頭の中に広げた。
如月セナ。俺を「師匠」と呼び、頼まれてもいないのにリハビリ用の薬を作り、おせっかいなまでに俺の退路を心配してくれた少女。
その少女が、今、俺の目の前で呼吸だけの「抜け殻」と化している。
その時だった。
チリ……、と耳の奥で、不快な高周波のノイズが走った。
俺が反射的に眉をひそめると同時に、集中治療室の廊下に並ぶすべての液晶モニターが一斉に、激しい砂嵐を吹き散らした。
「田中さん! 回線がハックされました! これは――」
廊下の奥から回収班の部下が叫ぶが、その声は、スピーカーから溢れ出た地響きのような低音によって一瞬でかき消された。
ジャァァァァァッ!
テレビ画面、スタッフステーションのパソコン、そして俺のポケットの中で震え出したスマートフォンの画面。
そのすべてが、一瞬にして、あの、青い不気味な発光ダイオードのような幾何学模様へと書き換えられていく。
かつて報道タワーがジャックされた時と同じ手口。
だが、今回の規模は、あの比ではなかった。
『――世界に告ぐ。そして、皇ハルト』
流れてきたのは、合成された、温度を完全に剥ぎ取られた機械音声だった。
画面に浮かび上がったのは、不気味な青い炎のように揺らめく「ウロボロス」の紋章。
そしてその背景には、学園都市の全域、さらには全国の大手メディアの地上波が同時に「同じ映像」を強制出力していることを示す、複数のライブ中継画面が並べられていた。
全国同時ジャック。
彼らは、この学園都市の通信網の根幹を、すでに完全に掌握している。
『伝説の傭兵、グレイ・ゴースト。君は今、己の失われた時間の重さに、苦しんでいるはずだ』
スピーカーから響く声が、俺の脳の、一番固く閉ざされた領域を直接指先でなぞるようにして、静かに言葉を紡ぐ。
『失われた五十二年。君が彼らと共に戦い、生き抜いてきたという生命の色彩。それを、君は薬の化学作用では二度と取り戻すことはできない。……なぜなら、そのロックを施したのは私であり、解除の術式は、私の手元にしかないからだ』
田中の顔が、一瞬で、血の気を失って青ざめた。
ハルトの呪い。
若返りという奇跡の裏に隠されていた、人為的なロック。
『皇ハルト。私の元へ来い。君の失った、その五十二年分の全ての記憶を、君の手に返してやろう』
画面の模様が、不気味に、ゆっくりと鼓動を打つように変化していく。
『代償は一つ。君の身体に刻まれた、戦闘最適化技術のすべてを私に提供し、私たちの新秩序設計に協力することだ。君の牙を、新しい世界の礎として、私の天秤に載せたまえ』
田中は何も言わなかった。ただ、スマートフォンの画面を握りしめる彼の手が、みきみきと嫌な音を立てて震えている。
彼の噛み締めた奥歯の隙間から、押し殺したような、重い呼気が漏れた。
だが、画面の声は、田中の絶望を見透かしたかのように、さらに冷酷な「刃」を突きつけてきた。
『……そして、君の優秀な助手についてだが』
画面の片隅に、現在、この病院で計測されているはずの、セナの脳内魔素活性グラフがリアルタイムで投影された。
折れ線グラフのループパターン。その波形のノイズの隙間に、規則的な、いくつかの「欠損値」が不気味に浮かび上がる。
『彼女の脳に、私の鍵を刻み込ませてもらった。彼女が設計した魔素波長理論のコア――共鳴同調の受信器は、今や彼女自身の脳の機能と完全に同期している。……この同期を安全に解除するプロトコルもまた、私にしか操作できない』
俺は、ガラスの向こうのセナを見つめた。
彼女の閉ざされた瞼。
その奥で、彼女は今も、冷たい魔素の檻に閉じ込められ、呼吸をするだけの端末へと変えられている。
『皇ハルト。私との取引を拒絶すれば、君の助手は、そのまま永遠に自分自身の脳内で魔素に脳髄を焼かれ、塵となって消えるだろう。……選択の余地は、最初からない』
画面が、一瞬だけ激しく明滅した。
『時間は、あまり残されていない。七日のうちに、君の『答え』を持って、私の指定する場所へと来たまえ。……最終鐘は、間もなく鳴る』
プツン、と。
冷たい電子音が響き、廊下のモニターは、一斉に元の無機質なニュース番組や、エラー画面へと戻っていった。
だが、静まり返ったフロアには、二度と元の平穏は戻らなかった。
田中は、握りしめた拳の震えを隠そうともせず、ただ血走った目で、暗転したモニターを見つめ続けていた。
アリスは、壁に背を預けたまま、自分の爪の先をじっと見つめ、アーサーは、自らの太い両拳を固く握りしめ、その節々をメキメキと嫌な音を立てて白く浮き上がらせていた。
俺の失った五十二年の記憶。
セナの、小さな命の灯火。
そして、俺の身体に刻まれた、この、殺戮のための技術。
黒幕から突きつけられた、最悪の三つの天秤。
俺は、ゆっくりと歩み寄り、集中治療室のガラスに、自分の右の手のひらをそっと押し当てた。
手のひらに伝わる、ガラスの冷たさ。
その冷気の向こうで、セナの脳波計の冷たいブルーライトだけが、波形を刻みながら、静かに彼女の横顔を照らし続けていた。




