第109話:理念テロ・第三波(研究所)
週末の中央魔素研究所。
学園都市の南側に位置するその施設は、休日のせいか、どこか冷ややかな静寂に包まれていた。
天井の並行する蛍光灯が、磨き抜かれたリノリウムの床に白い光の帯をまっすぐに落としている。
第三実験室。
室内に響くのは、大型サーバーが吐き出す微細な排熱音と、コンソール画面が刻むスクロールの音だけだった。
「……やっぱり、ここのパケット、ヘッダの偽装方法が普通じゃない」
セナがキーボードを叩く手を止め、タブレットの画面を俺の方へと向けた。
表示されているのは、アリスが盆栽配信のコメント欄から抽出した、あの定期通信のログだ。
「発信源は確かに先日田中さんが潰したセーフハウスだけど、経由している暗号化ノードが、学園のデータベースと裏で同期してる。……まるで、誰かが意図的に鍵を開けて待っていたみたいに」
俺はスチール製の丸椅子に腰掛け、差し出された画面を眺めていた。
画面の端には、アリスが持ち込んだ毒々しい青色のグミの袋が転がっている。
「内通者、というやつか」
「あるいは、もっと上の権限を持つ『システム管理者』そのものね」
対面のデスクで、分解したハンドガンのスライドをオイルの染みた布で拭いていたアリスが、冷たい声で補足した。
彼女の指先は、まるで精密な計量器のように一定の速度で金属を磨き上げている。
先日の配信の件で、俺の「牙」がまだ生きていることを確認したアリスは、今日、田中の許可を得てセナの解析作業の護衛を買って出ていた。
もちろん、部屋の入り口には、大剣を壁に立てかけたアーサーが、彫像のように静かに佇んでいる。
「師匠、本当に大丈夫? まだ脳内の活性グラフ、少しだけ波が荒いんだけど」
「気にするな。頭の芯が少し冷えるだけだ。……それより、その暗号の解読、あとどれくらいかかる」
「データベースの整合性を取るだけなら、あと三十分。でも、この『第零共鳴炉』に関連する古い術式コードの解析は、私の端末のスペックじゃ――」
第零共鳴炉。
退院直後、セナや田中から一度ならず聞かされた、不穏極まりない固有名詞だ。かつて政府や黒幕の前身組織が、大扉の強制開放実験のために開発したとされる、すべての厄災の起源。
脳内の白黒の図面には、その大雑把な「記号」だけが書き込まれているが、やはり実体験としての生々しい記憶は、依然として冷たい霧の向こう側に沈んだままだ。
セナが言いかけた、その瞬間だった。
ピーーーーッ! ピーーーーッ!
実験室の天井に埋め込まれた赤色の非常灯が、けたたましい電子音とともに激しく明滅し始めた。
無機質だった部屋が一瞬にして、血のような赤色に染まる。
『警告。第二管理セクターにて、未登録の魔素反応を検出。防護隔壁を閉鎖します。職員は速やかに――』
合成音声の警告が流れるが、それすらも中途で途切れた。
直後、遠くの廊下から、コンクリートを強引に削るような重苦しい金属音が響く。
「……アーサー」
俺が呼ぶより先に、入り口の男が動いていた。
アーサーは壁の大剣を右手一本で引き抜き、刃先を床から数ミリだけ浮かせる、完璧な低姿勢で身構える。
「主君、三名です。廊下の角を曲がりました。歩幅が狭い。……魔素の衣を纏っています」
「魔素遮断外套ね。シルバーバーグの襲撃部隊の標準装備よ」
アリスが、一瞬で組み上げたハンドガンのスライドを引いた。カチャリ、と乾いた金属音が赤く染まった室内に響く。
「セナ、コンソールから端末を抜け。アリス、右の電子ロックを撃ち抜け。アーサー、入り口で一人目を引きずり込め」
俺の脳が、かつて何度も繰り返したはずの「戦術」を、澱みなく口の端から吐き出していた。
記憶を失ったはずの俺の身体が、廊下を走る足音の「重さ」だけで、敵の装備と進行速度を完璧にプロファイリングしている。
「了解!」
アリスの銃口が火を噴いた。
廊下側の電子ロックがスパークを散らして沈黙し、スライド式の防護扉が、中途半端に三十センチほどの隙間を残して停止する。
その隙間から、夜色に染まった外套の袖が滑り込んできた。
手にしたタクティカル・ダガーから、黒い雷がパチパチと不気味な火花を散らす。
だが、その手首を、アーサーの鋼鉄じみた左手が、何の躊躇もなく掴み取った。
「ぬんっ!」
引きずり込まれる、肉の質量。
アーサーは、防護扉の隙間から強引に引きずり出した一人目の工作員を、そのまま床のリノリウムへと叩きつけた。
顔面からコンクリートへ激突した工作員が、呼吸を失って一瞬で気絶する。
間髪入れず、アリスが隙間から廊下に向けて二発、正確に弾丸を叩き込んだ。
魔素中和を施された対魔弾が、二種類目の外套を貫き、短い悲鳴が廊下に響く。
だが、敵もプロだった。
三人目の工作員は、負傷した仲間を盾にするようにして強引に室内に滑り込むと、懐から取り出した結晶体を、実験室の中央に鎮座する「小型共鳴塔」のガラス容器に向けて叩きつけた。
彼らの目的は、セナの確保だけではない。
データの完全な消去と、この施設の「機能停止」だ。
「しまっ――」
アリスが叫び、引き金を引く。
工作員の胸元を弾丸が貫いたが、彼の手から放たれた結晶体は、すでにガラス容器の防護障壁を突き破っていた。
パシィィィン!
ガラスが割れる、甲高い音。
直後、容器の内部で休眠状態にあった高濃度の魔素結晶が、触媒との接触によって急激な「共鳴暴発」を起こし始めた。
キィィィィィン――。
鼓膜を直接針で刺されるような、超高周波の共鳴音が室内に満ちていく。
計器のグラフが限界値を超えて跳ね上がり、回路が次々と焼き切れていく臭いが、オゾンの混じった不快な硝煙となって鼻腔を突いた。
(……不味い。この魔素圧は、肺を潰す)
俺の身体が、その空間の「危険度」を瞬時に察知した。
かつてバジリスク戦や大扉決戦の最中に肌で感じた、あの、世界が裏返る直前の、強烈な圧力。
「セナ!」
俺は丸椅子を蹴り飛ばし、データベースのコンソールにしがみついていたセナに向けて、跳躍した。
かつての屈強な体躯とは程遠い、十六歳の華奢なこの身体。
肺に冷たい空気が張り付き、筋肉が引き裂かれるようなラグを、俺の意志が強引にねじ伏せる。
ドンッ!
セナを床へ押し倒し、自分の身体をその上に重ねるようにして、背後からの「嵐」に備える。
次の瞬間、小型共鳴塔が、目も眩むような青白い光の球となって、大爆発を起こした。
ドゴォォォォン!!
凄まじい衝撃波が、実験室のすべての機器を薙ぎ払い、リノリウムの床を波打つようにして引き裂いた。
背中に受ける、焼けるような熱。
魔素の嵐が、俺の魔力膜を抉り、衣服の端を焦がしていく。
「あ、つ……っ!」
俺の腕の中で、セナが小さな悲鳴を上げた。
共鳴塔から放出された、純度の高すぎる魔素の波動。それが、防壁の代わりにセナを抱きかかえていた俺の腕の隙間をすり抜け、彼女の頭部へと直接、静電気のようにして流れ込んでいくのが、視覚ではなく「肌の感覚」で分かった。
セナの身体が、一瞬だけ硬直する。
彼女の目から光が消え、タブレットを握りしめていた指先が、力なく床へと滑り落ちた。
「セナ……!」
嵐が止み、室内に静寂が戻ってきた。
天井の非常灯はすべて破裂しており、部屋は、壊れた機器から吹き出す火花と、青白い残留魔素の煙だけで満たされている。
アリスが咳き込みながら立ち上がり、銃口を周囲に配る。
工作員たちは、共鳴塔の暴発に巻き込まれ、肉片すら残さずに消滅していた。
「主君! ご無事ですか!」
アーサーが大剣を構えたまま、俺の肩を抱き起こす。
「俺は、いい。……セナが、動かん」
俺は自分の腕の中の少女を見つめた。
外傷は、額の軽い擦り傷と、腕の火傷だけだ。命に別条はない。
だが、セナの瞼は固く閉ざされたままで、呼吸は、まるで深い昏睡に落ちたかのように、不自然なほど静かだった。
◇
一時間後。
夜間警備班と、田中の率いる回収部隊が到着した。
壊滅した第三実験室の前に、不自然なほど静かに、一台の黒いワンボックスカーが停まっていた。
車内では、簡易的な医療カプセルが作動しており、セナがその中で静かに眠っている。
車の脇に立つ、黒いスーツの男――田中。
いつもなら、デスクの上に転がる栄養ドリンクの空き缶を数えながら、適当な言い訳をでっち上げているはずの男の顔から、一切の表情が消えていた。
かきむしられた彼の短い髪。
そこに混じる白髪の数は、この一時間だけで、さらに何本も増えたかのように、無情な月光の下で白く、不気味に光っていた。
「……七瀬さん」
田中が、ひどくかすれた声で言った。
彼の目は、俺の目を避けるようにして、壊れた研究所の入り口を見つめている。
「如月博士の容態は?」
「命に別条はありません。……ですが、脳の特定領域に、通常ではあり得ない魔素の共鳴波が残留しています。私たちの医療技術では、これを安全に排除する方法が……見つからない」
田中の手が、ポケットの中で固く握りしめられていた。
「これは、ただの襲撃ではありません」
「どういう意味だ」
「彼女を、ただ殺すためでも、データを奪うためでもない。……彼らは、最初から『これ』を狙って、あそこに触媒を放り込んだのです」
田中は、ようやく俺の方へと視線を戻した。
その血走った瞳の奥にあるのは、冷徹な官僚の計算ではなく、得体の知れない深淵を覗き込んでしまった者の、本能的な恐怖だった。
「七瀬さん。……これは、始まりに過ぎませんよ」
俺は、その言葉を黙って聞いていた。
セナを庇った右腕の奥が、かつてバジリスク戦で負ったはずの「痛みの輪郭」をなぞるようにして、じわじわと、鈍い熱を帯びて疼いていた。
失われた五十二年分の生命の色。
それはまだ、俺の頭の中に白黒の図面としてしか存在していない。
だが、口の中に広がる、この不快なオゾンの臭いと、喉の奥にへばりつく硝煙の苦み。
それだけは、あの白黒の図面とは無関係に、俺の身体に、次の「戦場」の訪れを克明に告げていた。




