第108話:抑制薬の限界
平日の放課後。
薄暗い雨雲が低く垂れ込め、寮の四〇二号室の窓を細かな水滴が不規則に叩いていた。
俺は学習机の前に座り、空になった小さなガラスアンプルを指先で弄んでいた。
手のひらの中に残る、薬液の金属じみた冷たさ。
セナから渡された改良版のサプレッサー。それを数日おきに服用するようになってから、俺の脳内に奇妙な「変化」が起きていた。
頭の中に、白黒の図面が綺麗に広がっている。
アーサー、レオ、結城、雫、響。それに、田中やアリス、キララ。
かつて関わりのあった連中の顔と名前、そして彼らが自分にとってどういう立ち位置の存在なのかという「記号」は、今や驚くほど明瞭に一致していた。
だが、それだけだ。
図面には、色がついていなかった。
アーサーの名前を呼ぶとき、彼がかつて俺の忠実な部下であったという事実は、知識として完璧に理解できる。だが、彼と共に地獄のような戦場を駆け抜けたときの息苦しさや、仲間を失ったときの引き裂かれるような悲痛、あるいは生還した夜に交わした安酒の熱い温度――そうした、五十二年分の生命の色彩が、まったく伴わないのだ。
それはまるで、よく出来た他人の軍事報告書を、ただ義務的に暗記させられているかのような、どこか他人事じみた空虚さだった。
「……やっぱり、そこが限界みたいだね」
ベッドの脇の丸椅子に座り、タブレットのモニターを凝視していたセナが、掠れた声でぽつりと言った。
彼女の指先が、画面上に描かれた俺の脳内魔素活性グラフをなぞる。
折れ線グラフは、ここ数日間、完璧な平行線をたどって膠着していた。
「脳の固有名詞を司る領域のロックは外せた。でも、それ以上の深い情動記憶――実体験と結びついた感情の呼び水は、この薬の化学トリガーじゃ、これ以上つつき回しても反応しない」
セナはタブレットをゆっくりと胸に抱え込み、俺の顔を、値踏みするのではなく案じるような瞳で見つめた。
「これ以上の回復は、薬だけじゃ届かないよ、師匠」
「……そうか」
俺はアンプルをペン立ての端へ静かに戻した。
落胆はなかった。
戦場においては、どんな最新鋭の兵器にも必ず動作の限界がある。弾薬が尽きればただの鉄塊になり、整備を怠れば自壊する。薬に頼るリハビリがここまでだというなら、それはただの「仕様」だ。
「薬に頼るのも、ここまで、か。合理的でいい」
「冷めてるね。もっと『私の五十二年を返せ!』って暴れてもいいんだよ?」
「暴れたところで、消えた記憶が引き出しから飛び出してくるわけでもない。それに、名前が一致しただけでも儲けものだ。田中を『おじさん』呼ばわりして、無駄に胃薬を減らさせずに済む」
俺が皮肉交じりに言うと、セナはふっと柔らかく笑った。
だが、その瞳の奥にある、科学者としての冷徹な観察眼は消えていない。
「でも、感情の記憶が戻らないってことは、師匠の戦闘本能と、今の『七瀬遙』としての精神に、まだ大きなくさびが刺さったままだってことだよ。身体だけがプロのままで、心が追いついてない。……この間の『寝ながら制圧』の件だって、要するに脳の防衛本能が、意識を通さずに身体を勝手に動かしてるって証拠だし」
「身体のほうが、俺の頭より優秀だということだな」
「笑えないジョーク。もし次の戦闘中、身体の反射と頭の判断にズレが起きたら、今度は自分の関節が折れるだけじゃ済まないよ」
セナの指摘は、極めて正確だった。
先日の雫たちの実戦訓練を見届けていたとき、俺の右肩の奥が、かつてバジリスク戦で負ったはずの「痛みの輪郭」をなぞるようにして激しく疼いた。
身体が、俺の知らないところで、過去の戦いの代償を今もなお支払い続けている。
俺はゆっくりと立ち上がり、ベランダの窓を開けた。
湿った秋の風が、銀髪を冷たく揺らす。
棚に並んだ盆栽たちの土は、朝にやった水の湿り気をまだ確かに保っていた。
俺は、その黒い樹皮にそっと指先を触れた。
ゴツゴツとした、どこか無骨で、だが確かな生命の感触。
「……セナ」
「何?」
「薬が届かないなら、あとは自分の足で歩くだけだ。幸い、俺の手はまだ、この鋏の重さを覚えている」
鋏を握る手。
それだけは、脳内の白黒の図面とは無関係に、俺に温かい生命の手応えを返してくれる。
「……うん。そうだね。師匠には、それがあるもんね」
セナは立ち上がり、バッグを肩に掛け直した。
「私は研究室に戻って、残党の暗号解析の続きをやるよ。アリスが見つけてくれたコメント欄のログ、まだ面白いデータがいくつか残ってるから」
「ああ。無理はするなよ、セナ。お前が倒れたら、今度は俺が水やりの当番表を読み間違える」
「そこ? ……まあいいや。じゃあね、師匠」
セナは小さく手を振り、音もなく扉を閉めて出ていった。
部屋に、静かな雨の音だけが戻ってくる。
俺はベランダの黒松を見つめながら、右手の指先をそっと開いて、握り直した。
記憶の空白を埋める薬は、もうない。
だが、俺の身体には、彼らと共に戦い、生き抜いてきたという、消えない技術の「幹」が通っている。
俺は、おもむろに学習机の引き出しを開け、A5サイズのノートを静かに取り出した。
白黒の図面に、少しずつ、自分の手で新しい色を書き足していく。
明日の水やりの順番は、もう、迷う必要はなかった。




