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第107話:盆栽×戦術(再)

 土曜日の午後。

 四〇二号室のローテーブルの上には、一鉢の黒松が置かれていた。

 いつもの真柏とは違い、荒々しい樹皮と、天に向かって力強く伸びる針葉が特徴の若木だ。数日前にダンジョン管理局の売店で、安値で投げ売りされていたのを引き取ってきた。


 その横にノートパソコンを設置し、簡易的なウェブカメラをセットする。


「アリス、画角はこれで大丈夫か?」

「ええ、手元が綺麗に映ってるわ。あなたの顔も、首から上は半分くらい隠れるようになってるし」


 部屋の隅で、アリスがスマートフォンを片手に頷いた。

 アリスがうちの居候……いや、事実上の同居人になってから数日が経つ。

 あの夜、田中に投げかけた問いは、彼の重苦しい沈黙とうやむやな態度によって、事実上棚上げされた形になっていた。胸に刺さった棘のような疑念を抱えながらも、俺はあえて普段通りの日常を送ることを選んでいる。

 彼女の過酷な過去を聞いたからといって、俺たちの関係が劇的に変わったわけではない。ただ、アリスが配信のモデレーターを買って出るなど、妙に協力的になった。

 『命の値段』を他人に決めさせないために、俺というイレギュラーの近くに身を置く。それが彼女なりの、新たな生存戦略(タクティクス)なのだろう。


「よし、始めるか」


 配信開始のボタンをクリックする。

 画面の向こうで、またたく間に同接続数を示す数字が跳ね上がっていった。

 五百、千五百、三千――。

 最近は配信を始めるだけで、すぐに数千人の視聴者が集まるようになった。ゲーム配信者であるSHOOTの分析動画の影響もあってか、視聴者の層も「盆栽好きの老人」から「コアなゲーマーやミリタリーマニア」へと徐々にシフトしているのを感じる。


:きたああああああああ

:盆栽美少女ちゃん生存確認!

:今日もお手てが綺麗ですね

:後ろに映ってるの、もしかして新顔?

:松? 松だよね?


「こんにちは。Bonsai―Girlです。……はい、今日はこの黒松の手入れをやります。安かったので、ちょっと形を整えてみようかと」


 あらかじめ作っておいた「初心者です」という設定の仮面を被り、少し高めの声で喋る。

 実際、この少女の身体になってからの声は、普通にしていれば勝手に愛らしく響く。こればかりはダンジョンの呪いに感謝するべきか、それとも呪うべきか。


:黒松渋いな!

:初心者(嘘)

:どう見てもプロの品定めなんだよなぁ

:そういえば前、SHOOTの動画で「盆栽とエイムは同じ」って言われてたけどマジ?

:それな。ネットの掲示板でも噂になってる


 流れるコメントの中に、やはりその話題があった。

 『盆栽の手入れと、実戦における戦術判断は同じなのか』。

 SHOOTというプロゲーマーが、俺の剪定動画の筋肉の動きと、世界トップクラスの狙撃手(スナイパー)のエイムの連動性を比較したことで、そんな珍説がまことしやかに囁かれているらしい。


 俺は苦笑し、カメラの向こうの視聴者に向けて無難な返答を返そうとした。


「あはは、そんなわけないですよ。私はただ、趣味で枝を切っているだけですし。ゲームのことはよく分かりません」


 そう、マニュアル通りの美少女配信者の台詞だ。

 だが、コメント欄は容赦なく追及してくる。


:でもハルカちゃん、剪定するときの迷いのなさ異常じゃん?

:普通の初心者は、どこの枝を切るかで三十分は悩むらしいぞ

:ハルカちゃんがハサミ入れるとき、一瞬も迷ってないよね

:まるで敵の頭を撃ち抜く順番が決まってるみたいに見える


「迷い、ですか……」


 俺は手元に置いた、鋼製の剪定鋏を手に取った。

 ずっしりとした金属の重みが、手のひらに馴染む。

 目の前の黒松を見つめる。

 四方に奔放に伸びた枝葉。一見すると、どこから手を付けていいか分からない混沌。


 だが、俺の脳は、それを自動的に『処理』し始めていた。


 手前の細い枝は、主幹の栄養を吸い上げるだけの無駄な障害(ノイズ)だ。

 奥の交差した枝は、全体の風通しを悪くし、病気を呼び込む脅威(ターゲット)。

 右側に伸びた太い一枝は、一見立派に見えるが、将来的に全体のバランスを崩壊させる主因(プライマリ・スレット)。


(――残すべきは、中央の芯、ただ一つ)


 その瞬間。

 脳裏に、かつて何度もくぐり抜けた戦場の光景が重なった。


 路地裏から突入してくる歩兵。

 屋上に潜む狙撃手。

 側面に回り込もうとする装甲車。

 どれを先に排除し、どれを無視し、どれを『生かす』か。


 俺の指先が、わずかに冷たくなった。

 俺の意識が、作り物の美少女の仮面から、かつて『グレイ・ゴースト』と呼ばれた老兵へと、静かに、しかし完璧に切り替わる。

 声のトーンから、あざとい高音の響きが消え、静かで、平坦な、硬い響きへと変わっていった。


「同じ、だな」


 ぽつりと、呟いた。


:え?

:ハルカちゃん?

:急に声が低くなった……?


 コメント欄の動揺を無視し、俺は黒松の枝葉を鋏の先で指し示した。


「枝を選ぶ目と、敵を選ぶ目は同じだ。生かすために、殺すものを決める」


 鋏の刃が、一本の太い枝を挟み込む。

 一切の躊躇なく、指先に力を込めた。


 パチン、と硬い金属音が室内に響く。

 見栄えの良かった、しかし全体の成長を阻害していた太い枝が、呆気なく机の上に転がった。


「剪定とは、生かすための『殺戮』だ。全体の調和という美名のために、不要な命を冷酷に選別し、削ぎ落とす。優先順位を間違えれば、全体が死ぬ。戦術の基本と、何も変わらない」


 俺の目は、すでに黒松の緑を見ていなかった。

 その奥にある、目に見えない『骨格』。

 迷う余地などない。

 排除すべき対象は、最初からシステムとしてそこに『浮き上がって』見えているのだから。


 チッ、チッ、と鋏が軽快に、しかし極めて冷酷なリズムで音を立てる。

 落とされるべき枝が、ミリ単位の狂いもなく正確に切り落とされていく。

 その手つきには、美少女のあどけなさなど微塵もなかった。ただ無心に、標的の急所を無慈悲に刈り取る、戦場のプロの動きそのものだった。


「……残すべき『芯』だけを残し、他をすべて排除する。それが、これの生きる道だ」


 最後の不要な葉を指先で毟り取り、俺は鋏をローテーブルの上に置いた。

 金属がガラスに触れる、冷たい音が響く。


 ふと、モニターに目をやった。


 コメント欄のスクロールが、完全に停止していた。

 数千人の視聴者がいるはずの画面が、まるで静止画のように固まっている。


:………………

:ひっ

:今、背筋が凍った

:何これ……何を見せられてるの……?

:ハルカちゃんの目が、完全に「本物」のそれだったんだけど

:殺戮って言った? 今、この子、殺戮って言った?


 沈黙の後、爆発的な勢いでコメントが流れ始めた。

 だが、その内容は先ほどまでの「かわいい」「渋い」といった呑気なものではなかった。

 画面越しに、本物の『死線』を覗き込んでしまった者たちの、言いようのない静寂と戸惑い。


「あ……」


 俺は、自分がしでかしたことに、ようやく気がついた。

 アリスの方を向くと、彼女はスマートフォンを握りしめたまま、信じられないものを見るような目で俺を凝視していた。

 完全に、出しすぎた。

 ただの美少女として、のんびりとダンジョン管理局の庇護下で隠居生活を送るはずが、ハサミを持った瞬間に傭兵の『本能』が表に出てしまった。


「あ、アはは……! な、なんちゃって! 今の、ちょっと格好いい感じのポエムです! 盆栽の本に書いてあったのを、そのまま言ってみました!」


 慌てて、声を上ずらせて美少女の表情を作る。

 首を傾げ、あざとくダブルピースを作ってみせるが、引きつった笑みが自分でも分かる。


:いやいやいやいや!

:ポエムのトーンじゃなかったろ!

:あの目の光、絶対に何人もヤッたことあるやつだ……

:盆栽ってこんなに怖い娯楽だっけ?

:Bonsai-Girl、お前は一体何者なんだ……


「そ、それでは、今日の配信はここまでです! バイバイ!」


 逃げるように、マウスを操作して配信終了のボタンを連打した。

 画面が黒く染まり、接続が切れる。


 部屋の中に、重苦しい沈黙が戻ってきた。


 俺はローテーブルに突っ伏し、深いため息を吐いた。

「……やっちまった」


「やっちまった、なんてレベルじゃないわよ」


 アリスが、呆れたような、しかしどこか引きつった声で歩み寄ってきた。

 彼女は、俺が切り落とした黒松の枝を一本、つまみ上げる。


「今の配信、同接一万人超えてたわよ。切り抜き動画が作られたら、間違いなくまたネットが大騒ぎになるわね。……あなた、本当に隠居する気あるの?」

「ある。めちゃくちゃある。静かに盆栽を愛でて、お茶を飲んで、平穏に暮らしたい」

「説得力ゼロね。あのハサミの使い方……あれは完全に、獲物の喉元を掻き切る時の手際よ。私も暗殺の訓練は受けたけど、あんなに迷いのない『選別』は見たことがないわ」


 アリスは、切り落とされた枝をゴミ箱に放り込み、ふっと皮肉げに微笑んだ。


「でも、少し安心したわ」

「安心?」

「ええ。あなたの牙が、まだ錆びついていないことが分かってね。私の命を預ける相手が、ただの『可愛い女の子』じゃ、やっぱり頼りないもの」


 そう言って、アリスは冷蔵庫からプラスチックの容器を取り出し、俺の前に置いた。

 中には、あの毒々しい赤や青のグミが入っている。


「お詫びに、これでも食べたら? 頭を使いすぎて、糖分が足りてないんじゃない?」

「……毒を盛るな」

「ただの砂糖の塊よ。ほら、口開けて」


 アリスが、半ば強引に赤いグミを俺の口に押し込んできた。

 噛み砕くと、人工的な、暴力的な甘酸っぱさが口いっぱいに広がる。


 (本当に、とんでもなく身体に悪そうな味だ)


 だが、その強烈な甘酸っぱさは、脳の奥にへばりついていた硝煙の臭いを、強引に押し流してくれた。

 俺は、すっきりと整えられた黒松の佇まいを眺めながら、もう一度、深く息を吐き出した。


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