第106話:アリスの過去
「――これ、お前の国の菓子か?」
午前の明るい光が差し込む寮の四〇二号室。
昨夜、田中に投げかけた問い。それに対する彼の重苦しい沈黙が、今も胸の奥に冷たい澱のように残っている。
だが、今はそれを突き詰めている時間はない。
俺はローテーブルの上に置かれた、カラフルで平べったいゼリー状の物体をつまみ上げた。
アメリカ製のグミらしい。合成着色料を絵の具のように溶かしたような、毒々しい赤色をしている。
「そうよ。ロサンゼルスのダイナーには、必ずレジの横に置いてあるわ」
対面のソファに座るアリス・シルバーバーグは、薄いハーブティーの入ったマグカップを両手で包みながら、小さく笑った。
手首の簡易拘束ベルトは外されている。だが、出入口のすぐ外には、私服姿のアーサーが静かに立って気配を配っているのが、空気のわずかな流れで分かった。
昨夜のタワー送信所での騒ぎの後、アリスは「田中の許可」を得て、俺の部屋へ一時的に立ち寄っていた。
敵の使っていた武器が、彼女の古巣である民間軍事会社『シルバーバーグ(Silverberg)』のものだったからだ。
「ロサンゼルス……。お前はあそこで生まれ育ったのか?」
「厳密に言えば、アジトの兵舎ね。私はそこの創業者の娘――つまり、生まれたときから『商品』として育てられたのよ」
アリスはマグカップの温もりを手のひらで確かめるように、ゆっくりと視線を落とした。
彼女の冷えた硝子のような青い瞳が、逆光の中で細く光る。
「私の父……シルバーバーグの社長は、合理性を何より重んじる男だった。子供を育てるのも、将来の『有能なフロント要員』を育成するための先行投資にすぎない。だから十代になる頃には、射撃の反動制御と、相手の呼吸を盗むための交渉術ばかり教え込まれたわ」
「厳しい家庭環境だな」
「家庭なんて温かいものじゃないわよ。成績が落ちれば、次の日から夕食の品数が減るような、ただの『査定』の毎日。そこで生き残るために、私は自分の価値を証明し続けるしかなかった」
アリスはグミを一つ口に放り込み、機械的に噛み砕いた。
その関節の噛み合わせの正確さに、俺の身体がかすかな緊張を覚える。
彼女の語る過去は、俺がこれまで目を通してきたどの過酷な軍事報告書の記録よりも冷たく、そしてどこか歪んでいた。
「ハルト――いえ、グレイ・ゴーストと初めて会ったのも、ロサンゼルスだったわ」
「俺と?」
俺はグミをつまんだ手を止めた。
アリスは少しだけ懐かしそうな、けれど自嘲的な笑みを浮かべる。
「ええ。当時のシルバーバーグは、ある新興ハイテク企業の役員暗殺阻止を請け負っていた。そこへ、競合他社から雇われた『灰色の幽霊』が、単独で潜入してきたのよ。……あの時のあなたの動き、今でも夢に見るわ」
「俺は、何をしたんだ」
「警備システムをハッキングしたわけでもないのに、音もなく、光の死角だけを歩いて、警備員の背後をすり抜けていった。私があなたの気配に気づいたときには、もうターゲットの額に、赤いレーザーの照準点が置かれていたわ」
アリスは自分の額を、細い指先で軽く叩いてみせた。
「私は反射的に引き金を引こうとした。でも、あなたは私の手首を掴んで、一瞬で関節を極めて、こう囁いたの。『お嬢ちゃん、仕事は綺麗にやれ。無駄死には金にならん』って」
「……おじさん臭い台詞だな」
「本当にね。でも、その時のあなたの手のひらの硬さと、硝煙の匂いだけは、私の身体がずっと覚えていたわ。……その後、私の父は、作戦の失敗を理由に、私を中東の最前線へ『再教育』と称して左遷した。そこで私は、組織にとって『自分の命の値段』が、どれほど軽いものかを知ったのよ」
アリスの声は、どこか諦めたように乾いていた。
中東の泥水。
使い捨てにされる新兵。
俺は、その言葉を聞きながら、じっと自分の手のひらを見つめた。
かつて、俺も同じような地獄を見てきたのだろうか。
アリスの語るロサンゼルスの話も、中東の泥水の話も、今の俺には「他人の読んだ小説」にしか聞こえない。
だが、彼女が「使い捨ての駒になりたくなかった」という生存本能を語るその瞬間、俺の胸の奥で、かつての熱い共鳴が起きていた。
「学園に交換留学生として潜入したのも、シルバーバーグ本社からの命令だった。あなたの戦闘データを採取して、新しい兵器開発の基準にするために。……でも、夜間侵入事件の夜、あなたが私を結束バンドで縛り上げた時、すべてが終わったわ」
アリスはマグカップをローテーブルに置いた。
「日本の政府――田中さんが、私の越境工作を交渉カードにして、アメリカ本社へ猛抗議を入れた。シルバーバーグは、国家間の摩擦を避けるために、即座に私を『勝手な暴走』として切り捨てたのよ。ロサンゼルスの父は、私の除籍届に迷わずサインしたわ」
「それで、寝返ったのか」
「生き残るための、唯一の選択よ。私は、あの冷たいカプセルの中で『廃棄処分』にされるのを待つほど、お行儀のいいお嬢様じゃないから」
アリスは、初めて俺の目を真っ直ぐに見据えた。
その瞳の奥には、恐怖に抗い、しがみついてでも生き抜こうとする、野性動物のような強い光が宿っていた。
「私は今、田中さんの下で、組織の暗号キーを解読する仕事をしている。でも、それはあなたを助けたいからじゃない。……自分の命を、もう誰かの天秤に乗せさせないためよ」
「……いい判断だ」
アリスはマグカップを持ち上げ、残りのハーブティーを飲み干すと、音もなくソファから立ち上がった。
「アリス」
「何?」
「お前の過去は思い出せん。……だが、他人の天秤を叩き割って、自分の足でここに立っているお前は、嫌いじゃない」
俺がそう告げると、アリスは一瞬だけ目を見開き、それから、ふっと嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、ハルト。……やっぱり、あなたは私の知っている『あの人』のままだわ」
アリスは、ローテーブルの上にあの毒々しいグミの袋を置いたまま、音もなく部屋を後にした。
アーサーの静かな足音が、彼女をエスコートするように廊下の奥へと遠ざかっていく。
静寂が戻った部屋で、俺はアリスが置いていった、あの毒々しい赤色のグミをもう一つ、口に放り込んだ。
噛み砕いた人工的な甘さが、喉の奥に奇妙に残った。
誰かに決められた命の値段なんて、クソ喰らえだ。
俺はベランダの真柏をちらりと見やり、それから、手元にある次の予定が書かれた付箋を、静かに指先でなぞった。




