第105話:虚像の実験台
学園都市防衛本部の臨時指揮所は、安っぽいエアコンの駆動音と、電子機器の排熱で満ちていた。
まだ少し残っている抑制薬の副作用に耐えながら、俺はセナに連れられて、この騒がしい部屋の隅に置かれたパイプ椅子に腰掛けていた。
「ハルカちゃん、これ。温かいレモン水、淹れてもらったよ」
セナが気遣わしげにマグカップを差し出し、俺はそれを手元のスチールデスクへ置きながら、正面の大型モニターへと視線を釘付けにしていた。
突如として、指揮所のすべてのスピーカーが、甲高いエラー音を吐き出した。
「おい、何事だ!? 回線がハックされているぞ!」
オペレーターたちが一斉に悲鳴を上げる。
正面のメインモニターが、激しいノイズと共に暗転し、不気味な青い発光ダイオードのような文字が浮かび上がった。
同時に、学園都市の主要な地上波放送、さらには大手インターネットニュースのトップページが、一瞬にして同じ映像へと書き換えられていく。
『――世界に告ぐ。銀髪のワルキューレ、七瀬遙の真実を。』
スピーカーから流れてきたのは、合成された無機質な機械音声だった。
画面に映し出されたのは、白黒のカルテや、複雑な脳のCTスキャン画像。そして、不気味な医療用カプセルの中で眠る、銀髪の少女の「合成された」画像データだった。
『彼女は英雄などではない。日本政府が極秘裏に進めていた、魔素適応のための非道なクローン計画――その「実験体」の生き残りである。大扉決戦における彼女の戦闘能力は、人工的に植え付けられた戦闘最適化技術の成果に過ぎない』
「くそっ、捏造だ! 完全に偽物のデータだが……出来が良すぎる!」
指揮所の中央で、田中が机を叩いた。
彼のデスクには、すでに飲み干された栄養ドリンクの空き缶が三つ、虚しく転がっている。
かきむしられた彼の短い髪には、ここ数ヶ月で急激に増えた白髪が、無情な光を浴びて白く光っていた。
「情報統制を急げ! D-Tubeに連絡して該当動画の拡散防止プロトコルを起動! 各SNSにも即座に『デマ注意』のフラグを立てさせろ!」
「田中さん! サイバー攻撃だけではありません! 地上波の送信施設――東部送信タワーの制御室に、物理的な武装工作員が侵入しました! 放送の遮断と、捏造電波の強制出力を維持するつもりのようです!」
オペレーターの報告に、田中は痛むこめかみを押さえるようにして顔を歪めた。
「そっちの物理工作員は、すでにアリスの部隊とアーサーが現場に急行しているはずだ。……アーサー、聞こえるか!」
『ああ、聞こえている。汚いネズミどもが、タワーの防護扉を爆破しようとしているところだ』
スピーカーから、アーサーの重厚な声が、風の音と激しい発砲音を伴って響いてきた。
彼の大剣が空気を切り裂く風圧の音と、アリスが手にするカスタムアサルトライフルの乾いた金属音が、無線の向こうで交錯している。
『アリスだ。敵の数は六。魔素遮断外套を装備している。……田中、こいつらの武器、シルバーバーグの旧式よ。本社の倉庫から流出したものね』
「やはり、ウロボロスの残党か……! アリス、アーサー、送信所をこれ以上破壊させるな! 力尽くでも止めろ!」
『了解、主君の害となるものはすべて、我が大剣で薙ぎ払う!』
無線の向こうで、アーサーの怒号と共に、コンクリートが砕ける鈍い音が響いた。
戦闘は、彼らに任せておけば問題はない。彼らの技量は、かつて俺がこの身体に刻んだ戦術ロジックそのものだ。
だが、俺の視線は、依然としてモニターに流れる「非道な人体実験」の偽データを見つめ続けていた。
そこには、俺という存在を規定する、あまりにも精巧な「虚像」が描かれていた。
(俺は、本当にただの七瀬遙なのか……?)
脳裏に去来する、凍りついた感情。
記憶を失った俺にとって、自分の五十二年の人生は、他人から語り聞かされた「小説」のような、どこか現実味の薄いものでしかない。
だからこそ。
画面の中の、あの冷たいカプセルの中で眠る銀髪の少女が、本当に「自分」だったのではないかという、奇妙に澄んだ疑念が、胸の奥で音もなく鎌首をもたげていた。
「……田中」
俺はパイプ椅子から立ち上がり、白髪をかきむしる背中に向けて、静かに声をかけた。
田中が、びくりと肩を震わせて振り返る。
「……ハルカちゃん、今はそれどころでは――」
「俺は、本当にただの『七瀬遙』なのか?」
俺の問いは、怒りも、焦りも、怯えもなかった。
ただ、戦況を冷静に分析する斥候のように、あまりにも純粋で、淡々とした問いかけ。
「この身体が受けてきた呪い。そして、誰も教えていないはずの、この身体に残った戦闘技術。……これらは本当に、俺の過去から来たものなのか? それとも、あの画面の言う通り、俺はどこかの研究所で人工的に造られた……」
「ハルカちゃん!」
セナが、悲鳴に近い声を上げて俺の袖を引いた。
だが、俺は田中の目を真っ直ぐに見つめ続けた。
「答えてくれ、田中。……俺は、本当に政府の実験体だったのか?」
その瞬間。
いつもなら、どんな緊急事態でも、冷徹で合理的なカバーストーリーを即座にでっち上げ、口八丁で周囲を煙に巻くはずの男が。
国家の裏側を、その泥水に塗れた手で支え続けてきた、あの優秀なエージェントが。
「……っ」
初めて、言葉に詰まった。
田中の顔が、まるで凍りついたように青ざめ、その唇が、微かに震える。
彼は何かを言いかけ、喉の奥で言葉を押し殺すようにして、目を伏せた。
その沈黙は、ただの「偽情報に対する否定の遅れ」ではなかった。
ハルトという伝説の傭兵を、その国に都合よく若返らせ、利用し、戦場に送り出し続けているという、彼自身が抱え続ける「最も深い罪悪感」の傷口に、俺の純粋な問いが、正確に突き刺さったがゆえの、言葉にできない絶望。
「……お戯れを、七瀬さん」
長い、あまりにも長い数秒の沈黙の後。
田中は、かすれた、今にも崩れそうな声で、かろうじてそれだけを口にした。
彼の目は、俺の目を直視することができず、ただ血走った視線を、無機質なコンクリートの床へと落としていた。
『――こちらアーサー! 送信所の工作員、全員の無力化を完了した! 回線、復旧するぞ!』
スピーカーから、勝利を告げるアーサーの報告が、タイミング悪く指揮所に響き渡った。
メインモニターの青い文字が消え、いつものニュース画面へと戻っていく。
だが、この指揮所の冷え切った空気は、二度と元には戻らなかった。
俺は自分の、華奢で泥一つ付いていない白い両手を見つめた。
かつて無数の地獄を潜り抜け、銃のタコと硝煙の匂いにまみれていたはずの、俺の手。それとはあまりにもかけ離れた、温かいレモン水の熱すらも透かして見えそうな、綺麗な少女の指先。
記憶はなくとも、俺の人生を疑う冷たい霧は、依然としてそこにある。
それでも、俺は、この身体が覚えている「足跡」だけを信じて、次の戦場を見つめ続けるしかなかった。




