第116話:レオの号令
かつて教務室だった場所は、今や青白いホログラムの光に満たされた臨時防衛司令部へと変貌していた。
壁一面に投影された学園都市の三次元マップ。そこには、不気味に明滅する魔素濃度の等高線が、まるで巨大な怪物の血管のように這い回っている。
パサリ、と静かな部屋に紙の擦れる音が響いた。
西園寺レオの手元にあるのは、国家安全保障局とギルドが共同で発行した、一枚の書面。
そこには『学園防衛指揮官・西園寺レオ』という、彼の名前と、朱塗りの公印が押されていた。
本来なら、一介の候補生に過ぎない彼に、こんな重責が回ってくるはずがない。
だが、大扉決戦を経て、日本全域の防衛戦力は分散し、疲弊しきっている。おまけに、四日後に控えた旧政府施設地下への突入作戦には、七瀬さんやアーサーさん、アリスといった最精鋭が駆り出される。
つまり、この学園都市を守るための「大人の戦力」は、もうどこにも残っていないのだ。
レオは、机の端に置かれた冷たいスポーツドリンクのペットボトルを握り締めた。
かつて、あの銀髪の少女――七瀬遙に、完膚なきまでに叩きのめされた日のことを思い出す。
死角、光源、環境音。そのすべてを支配し、目の前から煙のように消え去った圧倒的な「プロ」の技術。
あの時の彼は、ただ己の才能に溺れ、マニュアル通りの魔法を撃ち散らすだけの子供だった。
だが、今の彼は、ただ背中を追いかけるだけの観客ではなかった。
「失礼します、西園寺指揮官」
ノックの音と共に、会議室の重い扉が開いた。
入ってきたのは、かつて合同演習で『落ちこぼれ小隊』と揶揄されながらも、七瀬さんから泥水を啜るような軍事教練を叩き込まれた三人だった。
結城瞬、星野雫、篠原響。
彼らの表情には、かつて合同演習のたびに遺書アプリを開いて泣き言を言っていた頃の弱さは、微塵も残っていなかった。
「集まってもらってすまない。……早速だが、本題に入らせてもらう」
レオはホログラムマップを操作し、学園の防衛ラインを三つのセクターに分割した。
「四日後の深夜、七瀬さんたちが地下中枢へ突入すると同時に、地上でも大規模な共鳴現象が発生すると予想される。敵の狙いは、学園に残された魔素解析データの破壊、そして人質の確保だ。……俺たちだけで、この学園を完全に死守しなければならない」
三人は黙ってレオの言葉を聞いている。その視線は、真っ直ぐにマップの一点を見つめていた。
「そこで、防衛部隊を救助、制圧、偵察の三系統に再編する。……それぞれに、現場の全権を委ねる小隊長を任命したい」
レオは、手元の端末から三人のデバイスへ、任命書データを転送した。
「救助小隊長、結城瞬。……お前には、非戦闘員の避難誘導と、負傷者の後方搬送を任せる」
「俺が……小隊長?」
結城が、驚いたように自分の手元を見つめた。その指先は、微かに震えている。
だが、その瞳の奥にある光は消えていなかった。
「結城。お前のライト魔法は、暗闇の戦場で最も確実な道標になる。先日のテロの時、お前は震えながらも、後輩たちを誰一人見捨てずに連れ帰った。……七瀬さんの言葉を覚えているか?」
「……『泣くな。泣く暇があったらリロードしろ』、ですね」
結城は、自嘲気味に小さく笑った。だが、すぐにその笑みを消し、深く頷いた。
「わかりました。……怖がっている暇があったら、一人でも多く救い出します。僕の光で、全員の退路を照らしてみせます」
「頼む。……次に、制圧小隊長、星野雫。学園外周の防衛ライン構築と、侵入した敵の迎撃を任せる」
「はい。……覚悟なら、とっくにできていますから」
雫は、いつものように淡々とした口調で応じた。
彼女は無意識のうちに、親指と人差し指で、ローテーブルの上に落ちていた微細な土の粒を擦り合わせ、その粘度を確かめるような手癖を行っている。七瀬さんに叩き込まれた、土魔法の強度を瞬時に測るための動作だ。
「お前の土魔法で作る即席トーチカと、泥のトラップは、敵の進軍速度を確実に削ぐ。正面から馬鹿正直に戦う必要はない。七瀬さんのように、泥臭く、徹底的にハメ殺してやれ」
「ええ。……私のバリケードを越えようとする不届き者は、全員、底なしの泥の中に沈めてあげます」
雫の言葉には、確かなプロとしての冷徹さが宿っていた。
「最後に、偵察小隊長、篠原響。風魔法による広域感知と、音響探知を駆使した哨戒を任せる。敵の接近を、一秒でも早く本部に伝達しろ」
「了解です、指揮官」
響が、自分の頬の側面にそっと手を当てた。風の流れを読み、大気の反響を拾うための、彼だけの「センサー」の構えだ。
「俺の風は、七瀬さんから『お前は風だ』と言われた時から、ただの魔法じゃなくなりました。学園の隅々まで風を這わせて、ネズミ一匹の侵入も見逃しません」
三人の覚悟は、すでに定まっていた。
かつては足手まといと笑われ、ただ守られるだけの「学生」だった彼らが、今や、己の技術と代償を理解した本物の「兵士」へと脱皮している。
レオは、胸の奥が熱くなるのを覚えながら、彼らに向かって右手を差し出した。
「七瀬さんは、記憶を失ってなお、俺たちのために戦場へ戻ろうとしている。……あの人が、すべてを終わらせて戻ってくる場所を、俺たちの手で守り抜くぞ」
「はい!」
三人の力強い声が、青白い光に満ちた司令部に響き渡った。
四日後。
その時が来れば、彼らはもう、あの銀髪の背中に頼ることはできない。
だが、彼らの身体には、あの泥に塗れた教練の記憶が、模擬戦でへし折られたプライドが、今も確かに息づいていた。
「全候補生へ伝達――これより、学園防衛計画『フェーズ・ガーディアン』を起動する。……各自、持ち場へ急げ!」
レオの号令と共に、学園のスピーカーから、静かだが重い警告音が鳴り響き始めた。




