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第15話 ひとつの傘の下

 最低だ。


 雨の中を歩きながら、その言葉だけが何度も頭の中を巡っていた。


 傘を叩く雨音がやけに大きい。


 街灯に照らされた濡れたアスファルトを、ぼんやりと見つめながら。

 最後に見た朝陽ちゃんの顔が離れない。


『……え』


 たった一言。

 それだけだった。


 怒りもしない。

 言い返しもしない。


 ただ、何が起きたのか分からないような顔で、私を見ていた。


「……っ」


 その後のことは、よく覚えていない。

 気がついたら店を出ていた。


 思わず立ち止まる。


 違う。

 あんな顔をさせたかったわけじゃない。

 傷付けたかったわけでもない。

 私は、ただ――。


「なに言い訳してんだろ……」


 なにも違わないじゃないか。

 

 嫉妬して、勝手に距離作って。

 そしてまた、自分の都合で勝手に距離詰めて。


 仲のいい同期のフリをして。

 友達のフリをして。


 あんなに純粋な、良い子を傷つけた。


「…………」


 もしも。

 考えてしまう。


 もしも私がナギ先輩だったら。

 もっと上手くやれてたのかな。


 なんて。


 私がしたのはアドバイスなんかじゃない。

 ただの八つ当たりだ。


 朝陽ちゃんは何も悪くない。

 悪かったのは。


「私じゃん……」


 ぽつりと零れた言葉は、雨音に消えていった。



 しばらく、その場から動けなかった。


 テーブルの向かいには、半分ほど残ったメロンソーダ。

 さっきまで笑い声で満ちていた席は、不自然なくらい静かだった。


「…………」


 結衣さんが、どうしてあんなことを言ったのか。

 それは、なんとなく分かる。


 きっと。

 僕が「今で十分です」と笑ったからだ。


 あの言葉に嘘偽りはない。

 けれど、今はそんなことどうだってよかった。


「どうして、あんな顔……」


 最後に見た結衣さんは、怒っているようには見えなかった。


 苦しそうだった。

 あの一言を口にした本人が、一番傷付いているような。

 そんな顔だった。


 胸の奥が、落ち着かない。


 もっと怒ってもいいはずだ。

 きっと僕の甘えた考えが、結衣さんを怒らせてしまったんだから。


 わからない。

 今自分が傷付いているのか。

 結衣さんが傷付いてしまったのか。


 それでも。


 このまま終わらせたくない。

 ーーただ、そう思った。



 冷たい雨が、一気に肩へ降り注いだ。


 ――傘。


 そう思った頃には、もう走り出していた。


 雨粒が髪を濡らし、服はあっという間に湿っていく。

 それでも足は止まらない。


 前方、街灯の下に白い傘が見えた。


 もう見失っていると思っていたその背中は、まだそこにあった。

 降り頻る雨の中、一歩も動かずに。


「結衣さん!」


 雨音を切り裂くように名前を呼ぶ。


「……朝陽ちゃん?」


 振り向いた結衣さんの顔は、ひどかった。


 雨なのか。

 涙なのか。


 前髪が張り付いていて、表情がよく見えない。


 それでも。

 笑おうとしていることだけは分かった。


 肺が痛い。

 荒くなった呼吸が、なかなか整わない。

 こんなに走ったのは、この身体になってから初めてだった。


「……朝陽ちゃん」

「さっきは、ごめんね?」


 貼り付けた笑顔で、結衣さんが言う。


「私酷いことーー」


「……っ違い、ます」


 なんとか絞り出した声で否定する。


「……違わないよ」


 その声は、まるで自嘲しているようだった。


「朝陽ちゃん」

「さっき、私のこと」

「エナさんらしいって言ってくれたよね」


「……あ」


 一緒に、飲み物を撮りに行った時。

 メロンソーダを好きだと言った結衣さんに、僕は確かにそう言った。


「違うよ」

「全部」

「全部、作り物だから」


「え……?」


「明るくて」

「面倒見がよくて」

「誰とでも仲良くできて」

「空気読めて」

「そういう子の方が、みんな好きだから」


 ぽつり、ぽつりと。

 一つ吐き出すたびに、自分自身を傷付けているみたいだった。


「メロンソーダだって」

「食べるのが好きなのだって」

「配信で話したキャラ付けに合わせてるだけ」


 言葉が途切れる。

 雨音だけが、二人の間を静かに埋めていく。


 結衣さんは唇をきゅっと噛み締めると、小さく俯いた。

 まるで、ここから先だけは口にしたくないとでも言うように。


 それでも。

 一度溢れ出した言葉は、もう止まらなかった。


「朝陽ちゃんと仲良くしたのだってさ」

「そのほうが同期っぽいかなって思っただけ」

「視聴者もその方が喜ぶしさ」


 その声には、もうさっきまでの明るさはどこにもなかった。


 諦めたように。

 壊してしまえと言わんばかりに。


 自分の中に積み上げてきたものを、一つずつ否定していく。


「だから」


 小さく笑う。


 ひどく寂しそうに。


「翠葉エナなんて」

「全部、偽物なんだよ」


 雨音だけが、その続きを急かすように響いていた。


「伸びてる同期に嫉妬して」

「勝手に当たり散らして」

「最低でしょ」


「違います」


 気付けば、言葉が口を突いて出ていた。


 結衣さんが少しだけ目を見開く。


「違わないよ」


「違います」


 今度は、はっきりと言い切る。


「全部演技なら」

「どうして」


 雨音だけが、二人の間を流れる。


「どうして」

「あんな顔をしてたんですか」


「…………」


「僕を傷付けたかっただけなら」

「どうして、あんなに苦しそうだったんですか」


 返事はない。

 結衣さんは唇を噛んだまま、俯いていた。


「それに」


 思い出す。

 さっき店を出る前のこと。


「僕、お財布を出そうとしたんです」

「でも、もう会計終わってました」


 結衣さんの肩が、小さく震える。


「傷付いてたのは、結衣さんも同じだったはずです」

「それなのに、最後まで僕のことを気遣って」


 一歩。

 雨の中を踏み出す。


「それも、全部演技なんですか?」


「それは……」


 か細い声だった。


「私は、そんな立派な人じゃない」


「僕は」

「今日、すごく楽しかったです」


 結衣さんが顔を上げる。


「コラボも、本当に楽しかったです」


 きっと、僕に出来ることなんてたかが知れている。

 

「誰かと食べるご飯、とても美味しかったです」


 結衣さんの抱えてきた想いも。

 悩みも。

 全部理解するには、僕たちは出会ってから短すぎる。


「一緒に配信するとき、いつも助けてくれて嬉しかったです」


 だから、今僕に出来るのはきっと。

 今の僕の想いを、結衣さんに伝えることだと思うから。


「また、コラボしたいです」

「また、ご飯も食べに行きたいです」


 胸の奥から、言葉が溢れてくる。


「だから」

「今日だけで」

「終わりになんて、したくありません」


 雨の音だけが静かに響く。

 

 結衣さんは何も言わない。

 ただ、僕を見つめたまま立ち尽くしていた。


「……っ」


 何か言おうとして。

 言葉にならない。


 その時だった。


「……くしゅっ」


「……え?」


 小さなくしゃみが漏れた。

 雨に濡れた前髪が頬に張り付き、そこで初めて自分が傘も差さずに飛び出してきたことに気付く。


「…………」


 結衣さんが呆然と僕を見つめる。


「朝陽ちゃん」


 ぽつりと名前を呼ぶ。

 次の瞬間。


「何やってるの……!」


 ぐい、と腕を掴まれた。

 そのまま引き寄せられる。


 ふわりと雨が遮られた。

 白い傘の下。


 引き寄せられた拍子に、結衣さんの腕が僕の肩へそっと触れる。

 雨で冷え切っていた身体に、その体温だけがやけに温かく感じた。


「風邪ひくでしょ……」


 その一言が、胸にじんわりと染み込む。


「ご、ごめんなさい」


「…………」


 返事はなかった。


 代わりに。

 僕が濡れないよう、結衣さんはそっと傘を僕の方へ傾ける。


「……これも、演技ですか?」


「…………」


 しばらく黙ったまま。

 結衣さんは視線を泳がせる。


 それから小さく息を吐いて。


「……うっさい」


 照れ隠しみたいに呟いた。

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