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第16話 期待してる

 シャワーを浴び終えたばかりの髪から、ぽたりと雫が落ちる。

 タオルを首に掛けたまま、僕はソファへ腰を下ろした。


 部屋には静かな雨音が満ちていた。


 窓ガラスを叩く雨。

 遠くを走る車のタイヤが、水たまりを切る音。


 そして。


 浴室から聞こえてくる、シャワーの音。


「…………」


 その音を聞いているだけで、なんだか落ち着かなかった。


 今、浴室には結衣さんがいる。

 どうして結衣さんが、さっきまで言い合っていたはずの僕の部屋でシャワーを浴びているのか。


 理由は単純だった。


 一本の傘では、あの激しい雨を防ぎきれるはずもなく。

 結局、二人ともびしょ濡れになってしまったからだ。


 視線を上げる。


 見慣れたワンルーム。

 自分で言うのもなんだとは思うけれど、簡素な部屋だ。

 

 少なくとも、『一人暮らしの女子大生の部屋』には見えないことぐらい、僕でもわかる。


 シンプルなベッドとローテーブル。

 勉強机にはゲーム用のデスクトップPC。


 昨日までと何も変わらないはずの部屋なのに。

 今日だけは、どこか違って見えた。


 それは多分、家族以外の人をこの部屋に入れるのが初めてだからだ。

 そもそも、同年代の女の子とこうして二人きりで過ごすこと自体が、初めてだった。


 胸の奥がそわそわする。

 さっき交わした言葉を思い出すたびに、その落ち着かなさは少しずつ大きくなっていった。


 あんなふうに、誰かに本音をぶつけたのも。

 誰かの本音をぶつけられたのも。

 僕にとっては初めての出来事だった。


 浴室のシャワーが止まる。

 静かになった部屋に、今度はドライヤーの音が響き始める。


 その音をぼんやりと聞きながら、僕は冷蔵庫から二本のお茶を取り出した。


 ガチャリ。

 脱衣所のドアが静かに開いた。


「お待たせ」


 振り向く。


 結衣さんは、僕が貸した少し大きめのスウェットを着ていた。

 まだ少し湿った髪をタオルで拭きながら、照れくさそうに笑う。


「……なんか」

「朝陽ちゃんの服って、思ったより大きいね」


「あっ……」


 思わず視線を逸らす。


 男だった頃に買った部屋着だから。

 そんなこと、言えるはずもなかった。


「ご、ごめんなさい」


「なんで謝るの?」


 結衣さんは小さく笑う。


 さっきの雨の中で見せた笑顔とも。

 配信で見せる笑顔とも違う。


 少しだけ疲れていて。

 少しだけ気の抜けた。


 きっとこれが、『若葉結衣』としての笑顔なんだと。

 そう思った。


「……あ、お茶どうぞ」


「……ありがと」


 二人で向かい合って座る。

 キャップを開ける音だけが、小さく部屋に響いた。


「…………」


 言いたいことは、きっとお互いにたくさんある。

 なのに、どちらも最初の一言が見つからなかった。


「……ごめん」


 沈黙を破ったのは、結衣さんだった。


「やっぱりちゃんと謝らせてほしい」

「ごめんね、朝陽ちゃん」


「……もう、気にしていません」


 ――オワコンになっちゃうよ。

 その言葉は今も胸の奥に刺さっている。


 けれど、それは傷ついたからじゃない。


「お礼を、言わせてください」


「……え?」


 結衣さんがきょとんと目を丸くした。


「きっと結衣さんが言ってくれなかったら」

「ずっとこのまま何も考えずに配信を続けていました」


 僕は満たされたいた。


 Vtuberとしてデビューして。

 配信をすれば、待っていてくれる視聴者さんがいて。


 頼りになる先輩がいて。

 一緒に笑い合える同期がいる。


 そんな毎日が、ただ嬉しかった。


 楽しくて。


 それだけで十分だと思っていた。


「でも」


 一度言葉を切る。


「このままじゃ、ダメなんですよね?」


「……」


「僕には、まだ見えていないものがあるんですよね」


 結衣さんが、あそこまで苦しそうな顔をして。

 それでも伝えようとしてくれた理由。


「僕は、このまま終わりたくないです」

「せっかく手に入れた、この毎日を」

「失いたくないから」


 結衣さんをまっすぐ見つめる。


「だから」

「結衣さん」

「僕に足りないものを、教えてくれませんか」


 結衣さんは、何も答えなかった。


 ただ、じっと僕を見つめている。

 驚いたように目を見開いたまま。


 まるで、そんな言葉が返ってくるなんて思ってもいなかったみたいに。


「…………」


 やがて。

 小さく息を吐く。


「ほんと」

「朝陽ちゃんってさ」


 力が抜けたように肩を落として。

 困ったように笑った。


「変な子だよね」


 今度は僕がきょとんとする。


「えと」

「僕、変なこと言いました?」


「変だよ」

「だってあんなこと言われたらさ」

「普通怒るじゃん」


 結衣さんはそこで言葉を切る。

 僕を見つめるその瞳は、どこか呆れたようで。

 でも、その奥には少しだけ安堵したような色が浮かんでいた。


「それをさ」

「どうしたらいいか教えてくれ、なんて」

「やっぱり変だよ」


 結衣さんは、小さく目を伏せた。

 指先でペットボトルをそっと撫でる。


 言葉を探すような沈黙が流れた。

 やがて、一度だけ静かに息を吸う。


「私ね、朝陽ちゃんに嫉妬してたの」


 その言葉は、僕にとって全くの予想外だった。


「結衣さんが僕に、嫉妬……?」


「そう」


 結衣さんは、小さく頷いた。


「私聞いちゃったの」

「偶然だったんだけどね」

「朝陽ちゃんが、ナギ先輩の推薦でたまプロに受かったって話」


 その言葉を口にした結衣さんの表情は、不思議と穏やかだった。

 嫉妬を語るというより、大切な思い出を振り返るように。


「私ね、たまプロ受けたのナギ先輩に憧れたからなんだ」

「ナギ先輩みたいなVtuberになりたくて、いろいろ勉強した」

「だからナギ先輩が連れてきた新人に負けたくなくて」

「それで勝手に張り合ってた」


「でも話してみたらさ」

「素直でいちいち反応可愛くて」

「すごい才能持ってるくせに全然いばらないし」

「配信もいつも面白くて」

「めっちゃ良い子で」

「気づいたら、普通に仲良くなってた」


 そう話す結衣さんは、どこか照れくさそうに笑っていた。

 同期として過ごした時間は、嘘なんかじゃなかった。


「だからこそ、許せなかった」

「才能があって、今めちゃくちゃ伸びてて」

「そんな朝陽ちゃんが、今のままでいいって停滞するのが」

「……勝手だよね」


 その声にはもう、嫉妬も怒りもない。

 残っていたのは、どうしようもない後悔だけだった。


「まあでも、朝陽ちゃんがどうしても知りたいっていうから教えてあげる」

「朝陽ちゃんは今のままだと確実にVtuberとして死ぬ」


 もう隠すことは何もないと言わんばかりに、結衣さんはきっぱりと言い切る。


「Vtuberとしての、死……」


「そ」

「Vtuber、もっと広く言えば配信者は星の数ほどいる」

「そんな中で生き残っていくためには、常に新しいコンテンツを視聴者に提供し続ける必要があるの」

「朝陽ちゃんのエクプロの腕は確かにすごいし」

「かわいい声でのチルい雑談は魅力だと思う」

「けどそれ”だけ”じゃだめ」

「常に新しい魅力を発信し続けないと、いずれ絶対に飽きられる時が来る」

「朝陽ちゃんに足りてないのは、新しいコンテンツへの”挑戦”だよ」


 結衣さんの言葉が、すとんと胸の奥へ落ちていく。


 新しいコンテンツへの挑戦。

 さっきファミレスでも言われていたことだ。


 僕は初配信以来、エクプロか雑談かコラボ配信しかやってこなかった。


「今はね、視聴者もまだ目新しくて見てくれると思う」

「けどこれから半年、一年、二年ってずっと同じことをしていくの?」


「……」


 正直、そんな先のことまで考えてもいなかった。


「でも」


 結衣さんは、小さく笑った。


「朝陽ちゃんなら、大丈夫だって思ってる」


「……え?」


「だってさ」

「私、だれよりも朝陽ちゃんの配信見てきたもん」

「めっちゃゲーム上手くて」

「たまにポンコツで」

「初コラボの時だって苦手なホラゲから逃げなかった」


「今日だって」

「私がひどいこと言っても逃げなかった」

「わからないから教えてって聞いてきてくれた」

「雨の中、傘もささずに私のこと追いかけてきてくれた」


 一つ一つ数えるように言葉を重ねていく。


「そういう子が、新しいことに挑戦できないなんて思わない」

「だから」


 結衣さんは、まっすぐ僕を見る。


「私は朝陽ちゃんに期待してる」


「同期としても」

「一人の、『紅音エリス』のファンとしても」


 その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。


 期待している。


 ただそれだけの一言なのに。

 どうしてこんなにも嬉しいんだろう。


 期待されることには、慣れているはずだった。

 けれど。


 こんなにも温かい「期待」は、初めてだった。


「……ありがとう、ございます」


 自然と頭が下がる。


 胸の奥が、とても熱い。

 こんなにも真っ直ぐ、自分のことを見てくれる人がいる。


 その事実が、とてもとても嬉しかった。


 ――けれど。


 そんな人に。

 僕は、ひとつだけ隠し事をしている。


「…………」


 喉の奥が、小さく鳴る。


 言うべきじゃない。

 そう思う自分がいる。


 話したところで、困らせるだけかもしれない。

 今までだって、自分から進んで話したことはない。


 話してしまえば、せっかく仲直りできた結衣さんに、嫌われてしまうかもしれない。


 でも。

 結衣さんは、自分の一番格好悪いところまで、全部僕に話してくれた。


 だったら。


 僕だけ何も言わないのは、ずるい気がした。


 小さく息を吸う。

 心臓がうるさいくらい鳴っている。


 怖い。


 この話を聞いた瞬間。

 結衣さんが僕を見る目が変わってしまうかもしれない。


 それでも。

 こんなにも僕のために想いを話してくれた結衣さんを。

 隠して騙し続けたくなんてなかった。


「結衣さん」


「……ん?」


 まっすぐ顔を上げる。


「一つだけ」

「聞いてほしいことがあります」


 結衣さんは、少しだけ姿勢を正した。


「そんな改まって」

「どうしたの?」


「……驚くと思います」


 喉が渇く。

 何度も言葉を飲み込んで。

 それでも、ゆっくりと口を開いた。


「今から話すこと」

「信じてもらえないかもしれません」


「大丈夫」

「朝陽ちゃんの話したい事、私もちゃんと聞きたい」


 その優しい言葉に、一歩踏み出す勇気をもらう。


 もう、隠したくない。

 隠したまま、この人と笑い合うなんて。

 そんなこと、したくない。


 だから。


 僕は息を吸って。

 覚悟を決めた。


「僕は」


 一拍。


 鼓動が耳の奥で鳴り響く。


「少し前まで」

「男でした」

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