文明社会へ
夜、タロウは頭を襲う熱さと痛みで一睡も出来ていなかった。白い歯をかみ合わせて椅子に座って震えていた。瞼の無い目は虚ろに漂い船内を見渡した。船内には以前に夢で見た象、手、目を模したような丸い文字と甲の字が左曲がりにしなった形の象形文字が壁一面に書き込まれている。タロウは首を回して窓を見ると、窓は文字で埋め尽くされて外は見えない。額を文字だらけの片手で覆ったタロウは文字から逃れるようにうろうろと歩き、張り合わされた装甲板の隙間に顔を覗かせた。タロウは情けない程細いため息をつき、落下するように尻餅をついた。外の砂の海は文字に覆われて真っ黒だった。躍る文字は顔を形作る。閉じられない瞼を呪ってタロウは大口を開けて目を平手で覆った。掌にも顔が踊り、我慢できなくなったタロウは両手の拳を握り締めて頭上に振り上げた。彼の大きな影が船内を覆う。彼の拳が真っ直ぐ星の光を受けて1本の影を作った時、
「旦那?」
ジャムの声でタロウは我に返った。タロウの視界には静かで文字や顔など無い船内が映っていた。ジャムはゆっくりと跪いたタロウに近寄り、腰にぶら下げたホルスターのスナップボタンを親指で外した。
「今晩はジャム。無駄なことはやめておいた方が良いぞ」
そう言ったタロウは立ち上がって半身で振り返り壁のスイッチを押した。天井の照明が点灯してタロウの顔に影を落とす。肉がそげ落ちた頬から覗く歯茎から透明なよだれが垂れ、目玉には白目が戻っていた。ジャムは様子が変わったタロウに驚愕し、無表情で後ずさる。
「起こしてしまって申し訳ない。顔の痛みがひどくて苛立ってしまった」
低くくぐもった声色でタロウが落ち着きを払って言い、彼は朝ジャムが座っていた椅子に腰掛けた。ジャムはスナップボタンを閉じ、腕を組んで船内の壁に寄りかかった。
「痛み止めは」
「規定量は処方済みだ。こういった物は量を守らないと大事になる。水を入れてくれないか?」
「奥にグラスがあったはず」
タロウに頷いたジャムは船尾の荷物置き場へ向かおうとすると、「待て」と何気なくタロウは呼び止めた。ジャムは足を止めて振り返った。
「ジャムでは無くファルバスとしての真実を聞きたい。どうせ隠すつもりなんて無いだろ」
笑みを浮かべたファルバスは口を半開きに次の言葉を5秒程考えてから返答した。
「ちょっと待っていてください」
「何時までも待つ」
タロウは奥に消えていくファルバスの背中に言葉を投げかけ、千切れて垂れ下がった頬肉を手で掻き上げて笑み作った。笑みの上には向き出しになった眼球が2つ並んでいる。奥から戻ってきたファルバスは水が満タンに入ったコップをタロウに渡して丸椅子に座った。長い沈黙の後、ファルバスが口火を切った。
「旦那、奥を見てきましたか?」
「朝食と着替えで行ったきりだ」
タロウは手元のコップから垂れる水滴を指で拭いながら答えた。
「実は鉢植えがあって。豆が植わっていました」
目がゴロリと動き、白い粒が沢山詰まった肥料袋がタロウの目に入った。ファルバスは唇を舐める。タロウの視線がファルバスに戻った。
「ジャムとは?」
「この顔の男です。27歳、稼ぎは悪くないが独り身で吃音障。女性関係の無さに劣等感を感じていたらしい。今頃は顔を売って新しい人生を歩んでいるでしょうな」
ファルバスは視線をコップに向けて何気なく揺らした。一口水を飲んだタロウはファルバスに尋ねた。
「捕まった理由は」
「今の目的地、ギャラハンという街に用がありまして。賞金稼ぎには自ら情報を流して捕まりましたが、あの砂漠で撃ち落されるとは予想外でした」
タロウは水を一口飲んで身を乗り出した。彼の両肘は口から零れた水ですっかり濡れた膝に付く。ファルバスはタロウの真っ暗な鼻の穴を見つめていた。
「なら、お前を突き出す。良いな」
タロウは湿った口を開けて短く言った。
「そうしてください。それを船の改修費に。3日後には仕事は済みますので合流しましょう。操縦の手順は座席下に図解が置いてあります」
しゃがれ声へ食い気味にファルバスが答え、彼はコップの水を飲み干した。その間、タロウは頬をほじくって小石を取り出していた。
「痛みはどれ程ですか?」
ファルバスがタロウに尋ねると、タロウはせせら笑い彼が持ったコップの水が震える。一瞬で無表情になったタロウはコップの水を一気にあおった。歯茎から水が漏れて首筋を濡らす。
「人生で1番痛くて、それが治まらない。本当に腹が立つ」
タロウは空になったコップを足下にそっと置いて立ち上がる。既に外には朝日が昇り始めていた。飛行船の前に茶色い風が吹き荒れていた。操縦席まで二人は歩き前方の砂嵐を睨み付けた。
「あんな中に突っ込むのか。迂回は出来ないのか?」
操縦席に座ったファルバスは首を振る。座席の背もたれの後ろに立ったタロウは眼輪筋を歪ませて顎をさすろうと手を伸ばし、ためらうようにその手を胸元で止めて操縦席の背もたれに乗せた。
「地中深くにあの砂嵐を起こしている魔法使いがいると聞きます。砂嵐を乗り切れる装備を持っている飛行船なら安全な道ですよ。砂粒と船体との摩擦熱で動力のキヌサテが死ぬ可能性が高いですね」
ファルバスは平手を砂嵐の壁にかざす。
「さっさと抜けちまおう」
そう言ったタロウは座席から離れて船内を歩き回り、椅子や荷物を次々に縄やボルトで固定し始めた。ファルバスが操縦席のスイッチを押して声を張り上げた。
「突入します!」
窓に鎧戸が降りた後、船体を叩く石の音が豪雨のように鳴り始めた。船内が暑くなり始める。点滅する照明の下でタロウは操縦席の赤いタンクと肥料の袋を掴みあげて船尾に向かい、袋をもみしだいて床に置く。短く息を吐いたタロウは船底に続く蓋を開き、中のトレーへ砕いた肥料と水を4度に分けて入れた。素手をトレーの中の水に突っ込み肥料を混ぜ込む。全て流し終えた後、タロウは操縦席に向かった。飛行船が突然30度程傾き、船尾から出てきたタロウは床に固定された通信機にしがみついた。固定された荷物の隙間から缶詰が飛び出て床を転がった。装甲板の隙間から小石が入ってくる。タロウは隙間に端材を押し込んで補強を試みたが、端材は飛来する石に跳ね飛ばされて船内の壁にぶつかった。小石が操縦席の計器のメーターを破壊する。ファルバスは両腕で頭を守り姿勢を低くした。更にぶつかる石の音が大きくなり、照明が消えて船体の揺れがひどくなった。途切れることの無い石の音と暗闇で不規則に傾く床で平衡感覚を失ったタロウは横転し、背中を壁に強く打ち付けた。タロウは壁にしがみついて身体を固定していると、石の雨音が緩み始めてまもなく止んだ。
砂嵐を抜けた後窓の鎧戸が上がり、窓の汚れを掃除機が吹き払った。砂利や砂まみれになった船内でタロウは全身を灰色に染めて立ち上がる。船内は直径4 cm程度の無数の凸があり、砂嵐の強さを物語っていた。埃を払いのけながらタロウは声をあげた。
「ファルバス。生きているか?」
「問題ありません。旦那、もう街が見えてきましたよ」
タロウは希望を胸にファルバスの声に向かって小走りで駆け寄った。砂が薄くこびり付いた窓からは大きな杉のような木が地面に広がって見えた。その上には大きくてぶ厚い雲が一帯を覆い、雷も走っていた。雷は遠くに見える黒くて長細い塔に吸い込まれるように落ちていた。その回りには小さい影ではあったが無数の飛行船が見える。
「天気が悪そうだ」
タロウは疑問を口にした。
「何時もあの調子ですよ。どうやら、これから向かう街をご存知ない様子だ」
ファルバスはタロウの顔を見ながら言葉を続ける。
「この街はギャラハンといいます。水を生み出す魔法の杖と巨大な地下水脈を中心としたヌミディス共和国で最も人気のリゾート地ですよ。そろそろ私を拘束して運転を代わってください」
ファルバスは飛行船の高度を下げて杉の木を乗り越えると席を立って3つ穴が空いた板と1枚のカードを持ってきた。彼はタロウの目の前でカードを板の側面に差し込むと板が真っ二つに分かれた。タロウはそれらを受け取り、2つの板を晒し台のようにファルバスに挟み込んで装着し、カードをポケットにしまう。操縦席に座ったタロウはイスの下から操縦手順が書かれたマニュアルを膝に置いて開いた。舵輪を握ったタロウの顔から自然と笑みがこぼれた。
「興奮するな」
思わずタロウの口から言葉が漏れ、彼は図解を見ながらおっかなびっくり加速や減速を繰り返した。無邪気なタロウに操縦席の側に立っていたファルバスは口の端を引き上げて苦笑いする。
「あの下に大きな闘技場も飛行船のレース場も何でもあります」
気が付くと街の上に来ており、すり鉢状の巨大な街が広がっていた。轟く雷の光が建物を青白く照らし、建物からは煌々とクリーム色の明かりが飛行船の下に当って、周囲は昼間のように明るかった。




