七十二日後
美咲が亡くなってから七十二日目の朝、直人はいつもより少し早く目を覚ました。
まだアラームは鳴っていない。部屋は薄暗く、カーテンの隙間から入る光も弱かった。
直人は枕元のスマートフォンを手に取った。
特に理由はなかった。
通知を確認する。
ニュース。会社のチャット。通販サイト。
そして、X。
見慣れた名前があった。
中川美咲。
直人は、しばらく動かなかった。
寝ぼけているのだと思った。
通知を開く。
投稿時刻は、六時五十八分。
>おはよう。
>なんか、変なことになってるみたい。
直人は文章を読んだ。
一度。
もう一度。
三度目。
意味は変わらなかった。
「……は?」
声が出た。
美咲のアカウントを開く。
プロフィールも、アイコンも、そのままだった。
最後の投稿は七十二日前。
>しばらくお休みするかも!
>ちゃんと治して戻ります!
もう何度も読んだ、美咲の最新投稿。
その上に、新しい投稿がある。
今日。
数分前。
>おはよう。
>なんか、変なことになってるみたい。
直人はベッドから起き上がった。
指が少し震えていた。
最初に考えたのは、乗っ取りだった。
誰かが美咲のアカウントへログインした。
悪趣味にもほどがある。
すぐに返信欄を開く。
すでに混乱していた。
>え?
>誰?
>これスタッフ?
>乗っ取り?
>ふざけないで
>本当にやめて
>美咲ちゃんのアカウントでこういうことしないで
投稿から数分しか経っていないのに、返信は増え続けている。
直人も何か書こうとした。
「誰だよ」
そこまで打って、消した。
送る前に、美咲がもう一度投稿した。
>ごめん、私もよく分かってない
直人は息を止めた。
さらに、
>みんな怒ってる?
と続く。
「怒ってる?」
直人は声に出した。
その言い方が、嫌だった。
美咲っぽかった。
似せているだけだ。
そう思った。
文章くらい真似できる。
過去の投稿を読めば、語尾も癖も分かる。
誰かが、美咲のふりをしている。
それ以外にない。
Xでは、あっという間に美咲の名前がトレンドへ上がった。
朝のニュースアカウントまで拾い始めている。
《亡くなったアイドル・中川美咲さんのXが突如更新》
《所属事務所は状況確認中》
《アカウント乗っ取りか》
直人は会社へ行く準備をしながら、何度もスマートフォンを見た。
歯を磨いている途中にも見る。
服を着ながら見る。
靴を履く前にも見る。
美咲はそれからしばらく投稿しなかった。
電車に乗る頃、所属事務所が声明を出した。
現在、アカウントの状況を確認していること。
スタッフによる投稿ではないこと。
予約投稿として設定されていたものでもないこと。
不正アクセスの可能性を含め、調査中であること。
それだけだった。
直人は文章を読み終え、また美咲のアカウントへ戻った。
新しい投稿。
>事務所の人も困ってるっぽい
>ごめんなさい
直人は眉を寄せた。
誰に謝っているのか分からない。
そのあと、
>私が悪いのかな
と来た。
直人はそこで、初めて返信欄へ文字を打った。
>誰?
送る。
返事は来なかった。
当然だと思った。
数分で千件以上も返信が付いている。
自分のものが読まれるはずがない。
大学へ向かう電車の中で、悠斗も同じ画面を見ていた。
最初は誰かの悪質ないたずらだと思った。
友人からもメッセージが来ていた。
>美咲のX見た?
>乗っ取り?
悠斗は、
>たぶん
と返した。
自分でも、その答えに納得していなかった。
美咲は生前、語尾に「笑」を付けることが多かった。
でも今朝の投稿には少ない。
そこだけ見れば、誰かが似せきれていないようにも見える。
一方で、もし本当に美咲だったとしても、死んで起きた直後にいつも通り笑っていられるのか。
そんなことを真面目に考えている自分がおかしくなって、悠斗は画面を閉じた。
十秒後、また開いた。
遥香は仕事へ向かう途中、投稿を保存した。
理由は分からなかった。
怖かった。
誰かが美咲を使っているのだとしたら、許せない。
でも、
>みんな怒ってる?
という一文が、頭から離れなかった。
美咲は、何か失敗した時にこういう聞き方をすることがあった。
「怒ってる?」と聞きながら、半分笑って、相手の顔を見る。
文字だけなのに、その顔が浮かんだ。
そして真帆は、朝から一度も返信していなかった。
他のメンバーやスタッフから連絡が来ている。
事務所も混乱している。
真帆はそれらに最低限の返事をしながら、美咲のアカウントだけを見ていた。
誰かが偽物なら、確認すればいい。
簡単だった。
午前九時十二分。
真帆は公開で一言だけ送った。
>誰?
数分後。
美咲のアカウントから返信が来た。
>真帆?
真帆は画面を見た。
それだけでは何も分からない。
誰でも知っている。
七瀬真帆。
元メンバー。
親友。
検索すればいくらでも出てくる。
真帆は続けた。
>誰って聞いてんの
少しして、
>美咲だよ
と返ってきた。
返信欄がさらに荒れた。
「本物なわけない」
「最低」
「真帆ちゃんまで巻き込むな」
「事務所早く止めろ」
「怖い」
真帆は公開でそれ以上返さなかった。
数分後。
DMが来た。
>真帆
真帆は画面を見た。
生前のやり取りが残っている。
一番下。
>寝てるなら寝てな
既読の付かなかった最後の言葉。
その下に今、新しい文章が増えた。
>真帆
真帆はしばらく触れなかった。
やがて、
>何
とだけ返した。
すぐ既読が付いた。
>怒ってる?
真帆の指が止まった。
公開投稿と同じ。
腹が立った。
>だから誰
>美咲
>証拠
少し間が空いた。
>証拠って何
>私しか知らないこと言って
今度は、返事が少し遅かった。
>中学の時の話とか?
真帆は眉を寄せた。
>なにそれ、知らない
>そっか
>適当言うな
>ごめん笑
笑。
そこで初めて付いた。
真帆は今にも叫びだしそうな苛立ちを抑えながら、
>じゃあ私が初めて美咲の家泊まった時何した
と送った。
すぐには返ってこなかった。
十秒。
二十秒。
一分。
>真帆が夜中に勝手に冷蔵庫開けて
>私のお母さんが作ったプリン食べた
真帆の指が止まった。
続けて、
>しかも私の分
さらに、
>朝まで黙ってた
真帆はスマートフォンを握ったまま動かなかった。
誰にも話していない。
少なくとも、外には。
昔、二人で笑っただけの話だった。
真帆は、
>誰に聞いた?
と送った。
>誰に?
>家族とか
返事。
>真帆、プリン食べたこと家族に言ってないじゃん
真帆は画面を見た。
そうだった。
あの時、美咲は真帆を庇って、「自分で食べた」と言った。
真帆が笑いながら白状し、美咲に怒られた後の話だ。
それも二人だけの会話だった。
真帆は次を送った。
>じゃああの時何て言った
>どの時
>私がファンにライブのミス言われた時
少しして、
>私が怒るって言った
>そのあとは
>真帆に止められた
>そのあと
今度は少し長く空いた。
>友達だからって言った
真帆は画面から目を離した。
部屋の中は静かだった。
エアコンの音だけがしている。
「……は?」
小さく声が出た。
それでも、まだ信じられなかった。
信じたら駄目だと思った。
誰かが知っている可能性。
どこかに記録がある可能性。
昔のスマートフォン。クラウド。スタッフ。
何でもいい。
何か説明があるはずだった。
真帆はさらに質問した。
くだらないこと。
二人しか覚えていないはずのこと。
美咲が一度だけ買ってすぐ捨てた妙なキーホルダー。
真帆がライブ直前に靴下を左右違うものに履き替えた理由。
誰にも見せなかった写真につけた二人だけの呼び名。
美咲は全部答えた。
一つだけ、間違えた。
>あの時ラーメン食べたよね?
真帆が、
>うどん
と返すと、
>あ、そうだった笑
と来た。
その瞬間、真帆は余計に分からなくなった。
完璧な偽物なら、全部正しく答えるのではないか。
美咲は昔から、どうでもいいところをよく間違えた。
その疑いが確信に変わるまで、それほど時間はかからなかった。
昼頃。
真帆は事務所へ向かった。
スタッフたちも、アカウントのログイン履歴やアクセス状況を確認していた。
不正なログインは見つからない。
端末情報にも、説明できないものはない。
それでも投稿されている。
真帆はスタッフに、DMの内容をすべては見せなかった。
いくつかだけ見せた。
「これ、本人しか知らない」
スタッフは何も言えなかった。
午後、美咲がまた投稿した。
>これ言っていいのかな
>真帆は信じてくれた…と思う
数秒後、真帆が返した。
>まだ信じてない
>えー!
>うるさい
>ひど!
そのやり取りは、一気に拡散された。
朝まで「乗っ取りだ」と言っていた人たちも、少しずつ言葉を失い始めた。
それでも、まだ大半は信じなかった。
信じられる方がおかしかった。
直人も、会社の休憩室でそのやり取りを見ていた。
真帆が本当に騙されているのかもしれない。
事務所ぐるみの企画かもしれない。
誰かが過去ログを持っているのかもしれない。
考えれば、説明はいくらでも作れた。
でも。
>えー!
>うるさい
>ひど!
それだけ見ていると、直人には妙に懐かしかった。
夜になっても、美咲はいた。
誰かの質問に答える。
死んだことは分かっているのか。
>たぶん
どこにいるのか。
>分かんない
苦しくないのか。
>今は別に
死んだ時のことを覚えているのか。
>あんまり覚えてないんだよね
そして、誰かが聞いた。
>本当に美咲ちゃんなの?
少しして、美咲が返した。
>うん、私は美咲だよ
それ以上の説明はなかった。
直人は、寝る前までその文章を見ていた。
美咲は死んだ。
それは変わらない。
葬儀もあった。
公式発表もあった。
身体は、もうない。
でも、今日一日だけで、美咲の新しい言葉がいくつも増えた。
七十二日ぶりに。
ありえないはずの続きを、美咲は書き始めていた。




