それぞれの喪失
あの日、彼女は死んだ。これは、僕たちから彼女に送る最後の”推し活”の物語ー
ー佐伯直人の場合
美咲が亡くなってから数日間、直人は何をしていたのか、あとになってもあまり覚えていなかった。
会社には行った。
電車にも乗った。
昼になれば何かを食べたし、仕事のメールにも返事をした。話しかけられれば答えた。
だから生活そのものは続いていた…のだと思う。
ただ、その間の出来事を思い返そうとすると、ところどころが抜け落ちている。
一つだけ、よく覚えていることがあった。
朝起きるたびに、美咲のXを開いた。
更新されていない。
昨日も、その前の日も。
一番上に残っているのは、
>しばらくお休みするかも!
>ちゃんと治して戻ります!
という投稿だった。
直人は何度もそれを見た。
戻ります。
もう戻らない。
二つの意味が、同じ文章の中にあった。
美咲が亡くなった翌日、健太から連絡が来た。
>大丈夫?
直人はしばらく考えて、
>何が
と返した。
すぐに、
>そういう返しする時点で大丈夫じゃないだろ
と来た。
直人は笑った…つもりだった。
>仕事してる
>そういうことじゃない
>じゃあ何
>飯食った?
直人は机の上を見た。
昼に買ったパンの袋があった。
食べたのかどうか、少し考えた。
>たぶん
送ってから、自分でその言葉に気づいた。
返事はすぐに来なかった。
しばらくして、
> そっか
とだけ届いた。
二人だけの小さな合言葉は、
魔法のドアを開くことはなかった。
直人はスマートフォンを伏せた。
夜になると、昔のライブ映像を見た。
生前は何度も見ていたものだった。
美咲が笑っている。
歌っている。
客席を煽っている。
小さくミスをする。
「今日カメラ入ってるのに!」と恥ずかしそうに笑う。
映像は何も変わっていない。
それなのに、死ぬ前とはまったく別のものに見えた。
もう、この先がない。
次のライブがない。
次の曲がない。
次に失敗して笑う美咲もいない。
直人は途中で動画を止めた。
止めると、美咲も止まった。
再生すればまた動く。
そのことが、妙に腹立たしかった。
ー高橋悠斗の場合
悠斗は、美咲のアカウントを何度も遡った。
死ぬ直前だけではない。
一か月前。
三か月前。
半年前。
最初に自分が返信した日の投稿まで戻った。
>今日ちょっとだけリプ返するー!
>なんでもどうぞ!
その下に、自分の昔の返信が残っている。
>次のライブ初めて行こうと思ってるけど一人でも大丈夫?
美咲の返事も残っていた。
>ぜんぜん大丈夫だよー!
>私もいるし!一緒に楽しも!
悠斗はその文章を見た。
私もいるし。
「いねえじゃん」
声に出した。
言った瞬間、喉の奥が詰まった。
悠斗はスマートフォンをベッドへ投げた。
数秒して、拾った。
画面が割れていないことを確認する。
それからまた美咲のアカウントを開いた。
友人から何件か連絡が来た。
以前一緒にアイドル現場へ行ったことのある友人だった。
>大丈夫?
>きついな
>美咲ちゃん、まだ若かったよな
悠斗は全部読んだ。
返事もした。
>うん
>そうだね
>ありがと
人と話すことはできた。
大学へ行けば普通に友人とも話した。
笑うこともあった。
そのたびに一瞬だけ、美咲が死んだことを忘れた。
そして、思い出した。
その繰り返しだった。
一番きつかったのは、何かを話したくなった時だった。
今日の講義が面倒だった。
バイト先で変な客が来た。
帰りに新しいラーメン屋を見つけた。
以前なら、内容によっては美咲の投稿に返信したかもしれない。
今は、送る場所がない。
アカウントはある。
返信欄も開ける。
書こうと思えば書ける。
でも、返事は来ない。
悠斗はそこで初めて、自分が美咲のことを「見る」以上に、「話す相手」として好きだったことを思い知った。
ー水野遥香の場合
遥香は、美咲のチェキを机の上に並べた。
何十枚もある。
笑っている美咲。
ピースしている美咲。
頬を膨らませている美咲。
遥香に寄りかかるように写っているものもある。
落書きには、
「今日もありがと!」
「その服すき♡」
「またコスメ教えて!」
そんな文字が残っている。
遥香は一枚ずつ見た。
これは本物だと思った。
美咲が自分を見て、話して、書いたもの。
消えない。
そう思った。
数日後、昔のファン仲間から連絡が来た。
>遥香ちゃん、美咲ちゃんのことで話せる?
電話をした。
遥香はいつの間にか泣いていたし、電話口からもすすり泣く声が聞こえてきた。
「あの子ほんと急すぎるよね」
「うん」
「なんかさ、まだ実感ない」
「私も」
「次の現場行ったら普通にいそう」
遥香は答えられなかった。
その言葉が嫌だったわけではない。
むしろ、自分も同じことを考えていた。
会場へ行けば、美咲がいる。
列に並べば、美咲が「遥香ちゃん」と呼ぶ。
そんな景色が、あまりにも簡単に頭に浮かぶ。
だからこそ、もう二度と起きないことが分からなくなる。
電話の途中、相手が言った。
「遥香ちゃん、美咲ちゃんと結構仲良かったじゃん」
遥香は少し黙った。
「まあ」
「いっぱい覚えてもらってたし」
「うん」
「いいな。ちゃんと思い出あるじゃん」
遥香はチェキを見た。
いいな、と言われるようなものなのか分からなかった。
思い出が多いほど、なくなったものも多い。
それでも、
「うん」
とだけ答えた。
ー七瀬真帆の場合
真帆は、事務所から連絡を受けたあと、一度も泣かなかった。
少なくとも、人前では。
スタッフと話した。
他のメンバーとも会った。
活動をどうするか。
今後の発表をどうするか。
取材をどうするか。
決めなければならないことが多かった。
誰かが泣けば背中をさすった。
誰かが何も喋れなくなれば、代わりにスタッフへ返事をした。
真帆自身は、妙に冷静だった。
美咲の葬儀は近親者のみで行われた。
真帆たちは別の機会に、メンバーとして美咲へ別れを告げた。
花。写真。見慣れた顔。
でも、美咲はいない。
真帆はその場でもほとんど泣かなかった。
ただ、帰宅してからベッドに座り、美咲とのDMを開いた。
>寝てるなら寝てな
最後の文章。
既読は付いていない。
真帆はそこから上へ遡った。
どうでもいい会話ばかりだった。
>今何してる
>ご飯
>なに
>カレー
>いいな
>食べれば
>太る
>知らん
別の日。
>真帆今日機嫌悪かった?
>普通
>絶対悪かった
>うるさい
>こわ
真帆は画面を見ながら、少しだけ口元を動かした。
それから美咲のアカウントを開いた。
何百人もの人が、今も美咲へ話しかけている。
>おはよう
>今日仕事行ってくるね
>美咲ちゃんが好きだった曲聴いてるよ
>会いたい
>ずっと好きだよ
返信はない。
当然だった。
真帆は、その返信欄を長く見なかった。見れなかった。
一週間。
二週間。
一か月。
美咲のアカウントは止まったままだった。
グループは五人で活動を再開した。
最初のライブでは、美咲の名前が出るたびに客席から泣く声が聞こえた。
直人もいた。
悠斗もいた。
遥香もいた。
それぞれ別の場所から、五人になったステージを見ていた。
美咲の立ち位置だけが空いているわけではなかった。
フォーメーションは変わっていた。
歌割りも変わっていた。
五人で成立する形に作り直されていた。
そのことが、妙に現実的だった。
ライブが終わったあとも、美咲は更新しなかった。
次の日も。
その次の日も。
やがて、ファンが美咲のアカウントへ「おはよう」と送る数も少しずつ減った。
過去の写真が投稿されることはあった。
昔の動画が拡散されることもあった。
新しく美咲を知る人もいた。
けれど、それは全部、過去にあったものだった。
新しいものは増えない。
直人も、悠斗も、遥香も、真帆も、そこだけはもう疑っていなかった。
中川美咲は死んだ。
だから、美咲が新しく何かを言うことはない。
その当たり前を受け入れるまでには時間がかかった。
それでも少しずつ、全員が解り始めていた。
美咲の言葉は、もう増えないのだと。




