ちゃんと治して戻ります
この日、彼女は死んだ。これは、僕たちから彼女に送る最後の”推し活”の物語ー
美咲が体調を崩した日の朝、最初に違和感に気づいたのは真帆だった。
控室へ入ってきた美咲は、いつも通り「おはよー」と言った。声も明るかったし、スタッフに挨拶をして、荷物を置いて、鏡の前で前髪を直した。けれど椅子に座ったまま、なかなか立とうとしなかった。
真帆は隣で衣装の確認をしながら聞いた。
「体調悪い?」
「んー?」
「顔白い」
美咲は鏡を見た。
「いつもじゃない?」
「いつもより」
「寝不足かも」
「何時に寝たの」
「二時くらい」
「普通じゃん」
「普通じゃない~」
美咲は笑った。
笑えている。
だから真帆も、それ以上は言わなかった。
その日は昼からライブだった。
リハーサルで、美咲は一度しゃがみ込んだ。
振付の確認が終わった直後だった。床に座り込み、膝を抱えるようにして息を整えている。
「やっぱ具合悪いじゃん」
真帆が近づくと、美咲は手を振った。
「ちょっとだけ」
「休みなよ」
「本番まで休む」
「ライブ出んの?」
「出るよ」
「無理じゃない?」
美咲は少し考えたあと、
「無理だったら途中で抜ける」
と言った。
真帆は納得していなかった。
でも、美咲がこういう時に頑固なのも知っていた。
スタッフにも体調不良は伝えられた。熱は高くなかった。本人も「ちょっとだるいくらい」と言う。念のため、終演後の特典会は様子を見て決めることになった。
ライブが始まった。
客席には直人もいた。
悠斗もいた。
遥香もいた。
誰も、その日が美咲の最後のライブになるとは思っていなかった。
一曲目。
美咲はいつも通り笑っていた。
直人は後ろの方から見ていたが、途中で少しだけ違和感を覚えた。
動きが小さい。
普段ならもっと大きく腕を振るところで、今日は少し抑えている。ターンのあとに、一瞬だけ胸元へ手を置いた。
それでも次の瞬間には笑っていた。
直人は気のせいだと思った。
二曲目。
悠斗も気づいた。
美咲があまり煽らない。
いつもなら客席へ声を飛ばすところで、今日はマイクを少し下げている。
それでも、悠斗のいる方を見つけた時には笑って手を振った。
悠斗も手を上げた。
三曲目。
遥香は、美咲の化粧がいつもより濃いように見えた。
チークが濃いのではない。
顔色を隠しているのかもしれない。
そんなことを思った。
でも、ステージの美咲は最後まで立っていた。
最後の曲が終わる。
六人が並ぶ。
美咲は少し息を切らしながら、
「今日もありがとー!」
と叫んだ。
客席から歓声が返る。
美咲は笑った。
その時も、誰も終わりだとは思わなかった。
ステージを降りた直後、美咲は壁に手をついた。
真帆が一番近くにいた。
「美咲」
「ちょっと待って」
美咲は息を整えようとした。
けれど、なかなか戻らなかった。
スタッフが椅子を持ってくる。
美咲は座り、
「ごめん」
と言った。
真帆はしゃがんで顔を見る。
「特典会やめな」
美咲は少し迷った。
「でも」
「でもじゃない」
「今日来てくれた人いるし」
「次があるでしょ」
美咲は黙った。
真帆は続けた。
「次、話せばいいじゃん」
少しして、美咲は小さく頷いた。
その日の特典会に、美咲は出なかった。
開始前、公式アカウントから体調不良による欠席が告知された。
美咲自身も投稿した。
>ごめんなさい!
>ちょっと体調悪くて今日は特典会お休みします泣
>来てくれたのにほんとにごめんね
>また元気な時にいっぱい話そ!
直人は会場を出る前にその投稿を見た。
>無理しないで。次でいいよ
送る。
数分後、美咲から返ってきた。
>ありがと!たぶんすぐ治る!笑
直人は少し笑った。
>たぶんね
美咲から、
>うつった!笑
と返ってきた。
直人は、その返信にいいねを押した。
悠斗も、
>お大事に
と送った。
美咲は、
>ありがとー!
>今日ちゃんと見えてたよ!
と返した。
悠斗は少し嬉しくなった。
体調が悪いのに、見つけていた。
遥香は、
>無理しないでね
>今日ちょっと顔色悪そうだった
と送った。
美咲は、
>分かっちゃった?笑
>今日はちゃんと休む!
と返した。
遥香はそれを見て、「やっぱり」と思った。
夜になっても、美咲の体調は戻らなかった。
むしろ悪くなった。
胸の違和感と息苦しさが強くなり、スタッフに付き添われて病院へ行った。
その頃、美咲はまだXを更新していた。
>病院きたよー!
>ちょっと検査するって!
>心配しないでね
返信欄には、すぐに何十件もの言葉が集まった。
>休んで。
>無理しないで。
>ちゃんと診てもらって。
美咲はそのいくつかに、
>はーい!
>大丈夫だよー
>ちゃんと寝ます!
と返していた。
翌日、美咲は入院した。
急性心筋炎。
最初にその病名を聞いた時、美咲はよく分かっていなかった。
真帆へ、
>心臓なんだって
と送った。
真帆から、
>それ、やばくない?
と返ってくる。
>先生いるから大丈夫でしょ
>スマホ閉じて寝なさい
>はいはい
>はいは一回
少しして、
>はい
と来た。
真帆はそれに既読を付けて、返さなかった。
その日の夕方、美咲はXに短く投稿した。
>しばらくお休みするかも!
>ちゃんと治して戻ります!
写真はなかった。
文字だけだった。
それでもファンは安心した。
ちゃんと治して戻ります。
戻る。
本人がそう言っている。
だから戻るのだと思った。
直人も、その文章を見た。
何か返信しようとして、やめた。
すでに「無理しないで」と言った。
何度も同じことを書く必要はないと思った。
いいねだけ押した。
悠斗は、
> 待ってる
と返した。
美咲から反応はなかった。
いつもなら少し寂しかったかもしれない。
その日は、寝ているのだと思った。
遥香は投稿を保存した。
理由は特になかった。
ただ、後で元気になった美咲に、
「この時ほんと心配したんだから」
と言いたかった。
真帆は何も書かなかった。
夜になって、美咲へ一度だけDMした。
>起きてる?
返事はなかった。
一時間後。
もう一度見る。
既読も付いていない。
真帆は、
>寝てるなら寝てな
と送った。
そのままスマートフォンを伏せた。
翌朝、美咲の容体が急変した。
その日、公式アカウントから新しい告知は出なかった。
メンバーの投稿も止まった。
ファンの間では、入院したのだから当然だろうという空気がまだ強かった。
午後になっても、美咲は更新しなかった。
直人は仕事の合間に何度かXを見た。
昨日の、
> ちゃんと治して戻ります!
が一番上に残っている。
それだけだった。
悠斗は大学の講義中に、何度かスマートフォンを確認した。
更新はない。
そのたびに画面を閉じた。
遥香は、化粧品売り場で美咲が使っていた下地を見つけた。
一瞬手に取って、そのまま戻した。
退院したらまた何か勧めようと思った。
真帆は、その日仕事へ行かなかった。
三日目の朝。
事務所から発表があった。
中川美咲が亡くなった。
直人は通勤途中だった。
電車の中で文章を読んだ。
一度では意味が入ってこなかった。
もう一度読む。
それでも分からなかった。
急性心筋炎。
二十一歳。
永眠。
いくつかの言葉だけが目に入った。
電車が駅へ着いた。
人が降りる。
人が乗る。
直人はそのまま立っていた。
悠斗は、最初に誰かの引用投稿で知った。
嘘だと思った。
公式アカウントを開いた。
同じ文章があった。
何度更新しても、消えなかった。
遥香は仕事へ行く支度をしていた。
ファンデーションを途中まで塗ったところで通知を見た。
鏡の中の自分と、スマートフォンを交互に見た。
しばらくして、椅子に座った。
片方の頬だけ、まだ化粧が終わっていなかった。
真帆は、発表より先に知っていた。
それでも事務所から公開された文章を読んだ。
最後まで読んだ。
それから、美咲とのDMを開いた。
最後に自分が送った文章が残っていた。
>寝てるなら寝てな
既読は付いていなかった。
その日の夜。
美咲のXには、数え切れないほどの言葉が送られていた。
>嘘でしょ。
>戻ってきて。
>ありがとう。
>大好きでした。
>信じられない。
>昨日までいたのに。
直人も開いた。
何も書けなかった。
美咲の最後の投稿は、そのまま残っていた。
>しばらくお休みするかも!
>ちゃんと治して戻ります!
その文章だけが、何時間経っても新しい投稿に押し流されなかった。




