水野遥香
あの日、彼女は死んだ。これは、僕たちから彼女に送る最後の”推し活”の物語ー
水野遥香が中川美咲を知ったのは、二十四歳の頃だった。
最初から熱心なアイドルファンだったわけではない。友人に誘われて何度かライブへ行き、その中で美咲が気になった。歌やダンスより先に、服装や髪型をよく見ていた。
可愛いと思った。
ただ、それだけなら他にもいた。
美咲はステージを降りても、妙に女の子らしかった。自撮りに使っているリップが変わったことや、前髪の巻き方が少し違うことを見て、遥香はそういう細かい変化に気づくのが好きだった。
初めて特典会へ行った日、美咲は遥香を見るなり言った。
「そのトップスかわいい!」
遥香は少し驚いた。
「これ?」
「うん。袖のとこ。どこの?」
ブランド名を答えると、美咲はすぐに、
「やっぱり!見たことあると思った!」
と笑った。
遥香はその時点で、少し嬉しくなっていた。
男のファンとは、たぶんこういう話はあまりしない。
もちろん、服に詳しい男もいるだろう。それでも、服や化粧の話なら女同士の方が自然だと思った。
「美咲ちゃんも今日の髪かわいい」
「ほんと?」
「いつもより巻き強めだよね」
美咲の顔がぱっと明るくなった。
「分かる!? 今日ちょっと変えたの!」
「やっぱり」
「えー、うれしい。誰も気づいてくれなかった」
その「誰も」に、遥香は少しだけ気分が良くなった。
それから、遥香はライブや特典会へ通うようになった。
美咲は比較的すぐに名前を覚えた。
「遥香ちゃん今日仕事?」
「休み」
「いいなー」
「美咲ちゃんは仕事でしょ」
「そうだけど!」
そんな会話をする。
服装の話。ネイル。ヘアカラー。肌荒れ。新作コスメ。
男のファンとは少し違う話をしている。
そう感じることが増えた。
ある日、美咲が遥香のベースメイクを見て言った。
「今日肌めっちゃきれいじゃない?」
「いつも汚いみたいに言わないで」
「違う違う! 今日特に!」
遥香は笑った。
「下地変えた」
「何使ってるの?」
商品名を教える。
美咲はその場で、
「覚えとこ」
と言った。
次の週。特典会へ行くと、美咲が遥香を見るなり言った。
「買ったよ!」
「何を?」
「下地!」
一瞬、何の話か分からなかった。
美咲がブランド名を言った。
先週、遥香が勧めたものだった。
「ほんとに買ったの?」
「買った買った。今日使ってる」
美咲はグイ、と顔を近づけた。
「どう?」
目の前に近づく美咲の顔にドキッとしながらも、遥香は反射的に美咲を見る。
「……いいじゃん」
「でしょ!」
美咲は満足そうに笑った。
遥香は、その日ずっと気分が良かった。
自分が勧めたものを、美咲が使っている。
それだけのことだった。
それでも、その事実は遥香にとって思った以上に大きかった。
自分の言葉が、美咲の日常の中に入った気がした。
別の日。握手会の終盤だった。
美咲は少し疲れていた。客が途切れたわけではないが、昼からずっと立ちっぱなしだったらしい。遥香の番になると、美咲はいつもより少し力の抜けた顔をした。
「つかれたー」
「珍しいね」
「何が?」
「ファンに疲れたって言うの」
「だって遥香ちゃんだし」
美咲はそう言って笑った。
その一言だけで、遥香の胸が少し熱くなった。
「大丈夫?」
「大丈夫。ていうかさ」
美咲が少しだけ声を落とした。
「遥香ちゃんにしか話せないんだけど」
遥香は自然と身体を寄せた。
「うん」
「ラーメン食べたいんだけど、最近太ってきちゃったから食べれない……」
遥香は思わず笑った。
「うそ」
「ほんと!」
「どこが」
「ほんとだって。今、過去最高」
「何が過去最高なの」
「…体重!」
美咲は小声のまま、少し恥ずかしそうに笑った。
遥香はもう一度、美咲の身体を見た。
「全然分かんないけど」
「衣装だと分かんないだけだよー」
「気にしすぎじゃない?」
「でも数字がさあ」
「じゃあラーメンやめれば」
「それができたら悩んでない!」
「知らないよ」
「食べていい?」
「私に聞かないで」
「遥香ちゃんがいいって言ったら食べる」
「責任押し付けないで」
二人で笑った。
スタッフに時間を告げられる。
美咲は最後に、
「これ他の人に言わないでね!」
と言った。
「言わないよ」
遥香はそう返して列を離れた。
帰り道、遥香はその会話を何度も思い出した。
ラーメン。体重。過去最高。
内容だけ見れば大したことではない。
でも、美咲はあれを男のファンには話さないだろうと思った。
少なくとも、「最近太った」「体重が過去最高」なんて、わざわざ男のファンに言うとは思えなかった。
女だから話せた。
遥香だから話せた。
その二つを、遥香はまだきちんと分けて考えていなかった。
数日後、美咲がXに投稿した。
> 昨日ラーメン食べちゃった!!
>意志よわすぎる笑
返信欄には、
> かわいい
>何ラーメン?
>いっぱい食べて!
そんな言葉が並んでいた。
遥香は笑った。
みんなは、ただラーメンを食べたことだけ知っている。
自分は、その前を知っている。
食べるか迷っていたこと。体重を気にしていたこと。「過去最高」と小声で言ったこと。
遥香は返信しなかった。
別に言う必要はない。
むしろ、言わない方がよかった。
自分だけが知っていることが、一つくらいあってもいい。
次のライブ。
遥香は少し後ろの方から見ていた。
美咲が前方の男性ファンへ手を振る。
その男は、よく現場で見る人だった。特典会にも毎回いる。
曲の途中、美咲がその人を見つけて笑った。
遥香は何となく目を逸らした。
特典会では、その男性ファンが遥香の少し前に並んでいた。
会話が聞こえる。
「今度資格試験あるんだよね」
「え、頑張って!」
「受かったら褒めて」
「もちろん! じゃあ報告して!」
「絶対?」
「絶対!」
男が嬉しそうに離れていく。
次が遥香だった。
美咲はいつも通り笑った。
「遥香ちゃんおつかれー!」
「おつかれ」
「今日どうだった?」
「よかったよ」
「ほんと?」
「うん」
遥香は少し迷ってから言った。
「さっきの人、よく来てるよね」
「ん?」
「試験の話してた人」
「ああ、うん。結構来てくれてる」
「へえ」
美咲は特に気にした様子もなかった。
「受かるといいよねー」
「そうだね」
スタッフから時間を告げられる。
遥香は列を離れた。
別に、何もおかしなことはない。
ファンが試験を受ける。美咲が応援する。受かったら報告してと言う。
普通だ。
それでも帰りの電車で、遥香は少しだけその会話を思い出した。
男のファンには、試験の話。
自分には、体重の話。
比べるようなものではない。
それでも遥香には、その違いが少し心地よかった。
男のファンがどれだけ長く通っていても、入れないところがある。
美咲が女の子だからこそ話せること。
自分も女だからこそ分かること。
遥香は、そう思った。
その夜、美咲がライブ後の投稿をしていた。
> 今日もありがとー!
>いっぱい話せて楽しかった!
遥香はいいねを押した。
少し下へスクロールすると、例の男性ファンが返信していた。
> 試験受かったら一番に報告する
美咲は、
> 待ってるー!がんばれ!
と返していた。
遥香はそれを見てから、自分のプロフィールへ戻った。
美咲とのチェキを一枚開く。
今日撮ったものだった。
美咲がいつものように笑っている。
遥香も笑っている。
遥香は、その写真をしばらく眺めた。
美咲にはたくさんのファンがいる。
その中で、自分は少しだけ違う。
そう思うことが、その頃の遥香にはまだ、とても自然だった。




