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死んだアイドルと水野遥香の愛の場合

あの日、彼女は死んだ。私はそれを、受け入れた。

遥香は、美咲のアカウントをミュートした。


ブロックはしなかった。


フォローも外さなかった。


ただ、タイムラインに流れてこないようにした。


それだけで、日常から美咲の姿は驚くほど減った。


朝起きても「おはよー」はない。昼休みに誰かの相談へ返している美咲も流れてこない。夜になって「まだ起きてる人ー?」と呼びかける文字もない。


見ようと思えば見られる。


検索すれば、いつでもそこにいる。


その距離が、今の遥香にはちょうどよかった。


最初の数日は、何度も癖でXを開いた。


美咲の投稿がないことに気づき、少しして、自分でミュートしたことを思い出す。


以前なら、そこからプロフィールを開いた。


今はやめた。


一度見れば、返信欄まで見る。


誰に返したのか確認する。


見覚えのある名前がいれば気になる。


知らない女のファンが親しそうに話していれば、もっと気になる。


もう、その繰り返しをしたくなかった。


美咲に「しんどい」と言われたからではない。


遥香はそう思っていた。


自分が疲れたからだ。


部屋には、生前の美咲がたくさん残っていた。


チェキ。


写真。


ライブの半券。


特典会でもらったカード。


昔のグッズ。


どれも、今さら捨てようとは思わない。


むしろ、Xを見なくなってから触れることが増えた。


ある休日、遥香は久しぶりに古いチェキを整理した。


時期ごとに並べる。


まだ美咲の髪が長かった頃。


前髪を切った頃。


衣装が変わった頃。


少し痩せた時期。


一枚ごとに、その日のことを思い出せた。


この日は雨だった。


この日は列が長かった。


この日は美咲の喉の調子が悪かった。


この日は遥香が新しいリップを褒めたら、美咲が嬉しそうにブランド名を聞いてきた。


覚えている。


ちゃんと覚えている。


誰にも訂正される必要のない記憶だった。


例の一枚も出てきた。


美咲が「遥香ちゃんにしか話せないんだけど」と言った日のもの。


チェキの中で、美咲は遥香の肩へ少し寄っている。


あの日、美咲は体重のことを話した。


秘密にして、と言った。


遥香は誰にも言わなかった。


今も言っていない。


指でチェキの端をなぞる。


あの時の美咲は、自分を信頼していた。


それは間違いない。


後から誰に何を言われても変わらない。


今の美咲本人にさえ、変えられない。


遥香はそう思った。


スマートフォンが鳴った。


沙耶からだった。


> 最近美咲ちゃん見てる?


遥香は少し迷って、


> あんまり


と返した。


> そっか

> 私も最近前ほど追えてない笑


遥香は、その文章を読んだ。


以前なら、少し安心したかもしれない。


沙耶が美咲から離れた。


自分の知らないところで親しくなる可能性が減った。


そんなふうに考えたかもしれない。


今は、


> そうなんだ


とだけ返した。


沙耶から、


> でもたまに見ると普通にいるから変な感じする


と来た。


遥香は少し考えた。


> いるんだろうね


送った。


その言葉は、自分でも妙だった。


いる。


美咲はいる。


死んでいるのに。


自分が見なくてもいる。


自分が返信しなくても、誰かと話している。


その事実は、以前なら耐え難かった。


今も好きではない。


でも、好きではないまま放っておくことはできた。


数日後、遥香は偶然、美咲の名前を見た。


フォローしている別のファンが引用していたからだった。


> 今日寒くない?


という美咲の投稿。


昔と何も変わらないような文章だった。


遥香は反射的に開いた。


返信欄には何百件も並んでいた。


美咲はいくつか返している。


男にも。


女にも。


昔からのファンにも。


死んでから知った人にも。


遥香の知らない名前ばかりだった。


その中に、沙耶もいた。


> 寒い!もう冬じゃん


美咲。


> まだ早い笑


遥香はそれを見た。


何も感じなかった、とは言えない。


胸の奥に、昔と同じ小さな棘が刺さる。


自分には返さなかった日があった。


沙耶には返している。


そう考えた。


でも、遥香は画面を閉じた。


以前ならできなかった。


それだけだった。


美咲から直接連絡が来ることはなかった。


遥香も送らなかった。


関係が完全になくなったわけではない。


連絡先は残っている。


Xでは相互フォローのまま。


美咲がその気になれば、いつでも話せる。


遥香だって同じだった。


ただ、話さなかった。


時間が経つにつれ、それが普通になった。


ある日、仕事帰りにドラッグストアへ寄った。


化粧品売り場を歩いていると、昔、美咲に勧めたブランドが目に入った。


新色が出ていた。


遥香は手に取った。


裏返す。


色を見る。


美咲、好きそう。


そう思った。


スマートフォンを取り出しかけた。


昔なら、写真を撮って送っただろう。


「これ絶対似合う」


と。


遥香は商品を棚へ戻した。


美咲には、もう送らなかった。


その代わり、自分用に一本買った。


家へ帰って、鏡の前で試す。


思ったより似合った。


「……かわいいじゃん」


誰に言うでもなく呟いた。


その夜、久しぶりに古いライブ映像を見た。


まだ六人だった頃のメメント・キミ。


美咲がいる。


黄色の衣装。


明るい声。


汗で崩れかけた前髪。


客席へ大きく手を振っている。


遥香は何度も見たことのある映像を、最初から最後まで見た。


懐かしかった。


やっぱり、この頃の美咲が好きだと思った。


今の美咲より。


そう思った。


それを間違いだとは思わなかった。


人は変わる。


好きだった人が変わって、好きではなくなることだってある。


美咲自身も「変わった」と言った。


なら、自分が昔の美咲を好きでいることの何が悪いのだろう。


映像が終わる。


自動再生が次の動画を始めようとしたので止めた。


部屋が静かになる。


遥香は箱から、あのチェキを取り出した。


涙の跡はもう分からなかった。


美咲は笑っている。


その顔を見ながら、遥香は思った。


この美咲は、自分を拒まない。


正確には、もう何も言わない。


それでも遥香にとっては、その方がよかった。


今の美咲は、遥香の記憶に口を出す。


昔の私も私。


今の私も私。


あの日の言葉が頭に浮かぶ。


遥香は唇を結んだ。


「でも、私が好きなのはこっちだから」


チェキの美咲へ言った。


返事はない。


それでよかった。


翌朝。


通勤電車の中で、遥香はXを開いた。


検索欄に指を置く。


「中川美咲」。


そこまで入力して、少し迷った。


検索した。


美咲のアカウントは、一番上に出た。


最新の投稿は十分前。


> おはよー!今日もがんばろー


元気そうだった。


遥香はそれだけ確認した。


返信欄は開かなかった。


いいねもしなかった。


プロフィールを閉じる。


電車は次の駅へ着いた。


人が乗ってくる。


遥香はスマートフォンを鞄へしまった。


美咲を嫌いになったわけではない。


たぶん、これからも嫌いにはなれない。


ただ、今の美咲を好きでいなければならない理由もなかった。


遥香には、遥香の美咲がいる。


それはもう、更新されない。


だから安心して好きでいられた。


水野遥香の”推し”、中川美咲はあの日死んだ。


そして、奇跡は起こらなかったのだ。


ただの、一度たりとも。

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