清く、醜く、鬱くしく
あの日、彼女は死んだ。ならばどうして、そのままにしてくれなかったのだろうかー
直人は最近、美咲の名前を検索しなくなっていた。
本人のアカウントは見る。
メメント・キミの公式も見る。
ニュースも、見出しに名前があれば読むことはある。
ただ、自分から検索欄へ「中川美咲」と打ち込むのはやめた。
何を見ても気分が悪くなるからだった。
美咲を人殺しと呼ぶ人がいる。
その人たちを罵倒するファンがいる。
岡田修平の過去の投稿を延々と掘り返す人がいる。
誰かが見つけた文章を、別の誰かがまた引用する。
毎日同じことをしていた。
直人にはもう、どこからが新しい話なのかも分からなかった。
仕事帰り、電車の中でニュースを開いた。
美咲についての記事がまた出ていた。
記事の内容自体は、ここ数日と大して変わらない。
岡田修平という男性が亡くなったこと。
生前ではなく、美咲の死後にファンになったこと。
X上で継続的に交流していたこと。
修平が美咲に会いたがっていたらしいこと。
美咲本人は、死後に彼と会っていないと話していること。
最後には決まって、専門家のコメントが載っていた。
著名人とファンとの適切な距離について。
オンライン上のつながりについて。
強い孤独状態にある人への周囲の支援について。
どれも間違ってはいないように見えた。
直人は途中で記事を閉じた。
「適切な距離」が何メートルなのか教えてほしかった。
美咲が修平に返さなければよかったのか。
名前を覚えなければよかったのか。
帰宅時間に気づかなければよかったのか。
そうすれば修平は死ななかったのか。
直人には分からない。
逆に、美咲がもっと修平に返していたら何か違ったのかもしれない。
もっと強く止めていれば。
もっと早く異変に気づいていれば。
そんなことだって、いくらでも言える。
全部、修平が死んだあとだから言えることだった。
電車を降りる。
駅前では、若い男が友人らしい相手と肩を組んで歩いていた。
片方が酔っているのか、声が大きい。
もう片方が笑いながら引き離している。
直人は横を通り過ぎた。
家に着いて、久しぶりに岡田修平のアカウントを開いた。
フォロワーは以前よりはるかに増えていた。
最新の投稿は、生前のまま止まっている。
その下には、死後に付いた返信が並んでいた。
> ご冥福をお祈りします
> 美咲ちゃんに会えましたか
> なんで死んだの
> あなたのせいで美咲ちゃんが叩かれてる
直人は最後の一文を見て、眉をひそめた。
修平はもう読めない。
それでも、人は本人へ向けて責める。
美咲へ向けても責める。
誰かに向けずにはいられないらしい。
少し遡る。
修平の投稿は普通だった。
仕事。
ゲーム。
昼飯。
帰宅。
その中に美咲が混ざるようになり、少しずつ割合が増えていく。
でも、死ぬ直前まで全部が美咲だったわけではない。
会社へ行っている。
ゲームもしている。
同僚とも話している。
その事実が、直人には逆に怖かった。
見るからに壊れていた人ではない。
ある日突然、美咲しか見えなくなったわけでもない。
普通の生活の横で、美咲の場所だけが少しずつ大きくなっていた。
直人は自分の昔を思い出した。
朝起きれば美咲を見る。
投稿が遅ければ気にする。
通知を切ったのに、余計に何度も確認する。
美咲が今日もいることを確かめる。
自分はそこから少し離れた。
修平は、逆へ進んだ。
違いは何だったのだろう。
性格。
環境。
生前の美咲を知っていたかどうか。
健太がいたこと。
仕事。
偶然。
どれも答えになりそうで、どれも足りなかった。
もし自分が修平と同じように、美咲を死んでから知っていたら。
もし健太がいなかったら。
もし五人のメメント・キミをもう一度見なかったら。
自分も同じところまで行ったのか。
直人は考えた。
すぐに、そんなことを考える意味はないと思った。
確かめようがない。
Xを開く。
美咲は今日はまだ一度しか投稿していなかった。
> おはよー
それだけ。
返信もしていない。
少し前なら、一日中誰かと話していたのに。
直人は美咲の過去の投稿を見た。
修平が亡くなる前。
「誰かいる?」
「今日静かじゃない?」
「まだ起きてる人ー?」
そういう言葉が増えていた時期。
当時はただ、美咲も暇なのだろうと思っていた。
今でも、そうなのかもしれない。
美咲は人と話すのが好きだ。
生前からずっと。
けれど、身体がなくなってから、美咲に残されたものはXだけだった。
ライブにも行けない。
外へ出られない。
自分で写真を撮ることもできない。
眠らなければならないのかすら分からない。
直人はそこで初めて、美咲が一日をどう過ごしているのかをまともに想像した。
朝。
昼。
夜。
その区切りに意味があるのか。
誰も返信しなかったら、美咲には何が残るのか。
直人はすぐに考えるのをやめた。
美咲本人ですら、そんなことを考えているのか分からない。
勝手に可哀想な存在にするのも違う。
ただ、今まで「ファンが美咲に依存する」ことばかり話題になっていた。
逆向きの矢印が絶対にないと、誰が言えるのだろう。
美咲自身がXの投稿で、
> 修平くんと話すの楽しかったよ
と書いていたことがあった。
ーそれは一日も経たずに消されたが
それを見て、
「ほら依存させてた」
と騒ぐ人もいた。
直人には、むしろ逆に見えた。
修平だけが、美咲を必要としていたわけではないのかもしれない。
だからといって、何かが解決するわけでもない。
美咲も修平を必要としていたなら、美咲にも責任がある。
そう言う人もいるだろう。
逆に、二人とも互いに必要としていたなら誰も悪くない、と言う人もいるかもしれない。
直人はどちらにも納得できなかった。
「誰も悪くない」
その言葉は優しい。
でも、修平は死んでいる。
美咲は人殺しと呼ばれている。
それを全部包んで「誰も悪くない」で終わらせるのは、少し乱暴な気がした。
誰も悪くないのではなく。
誰か一人だけを悪いことにできない。
その方が近かった。
修平は、自分で死を選んだ。
その選択まで全部美咲のせいにするのは違う。
美咲の存在が、修平の選択に何も影響しなかったと言うのも違う。
美咲は修平に死んでほしいと思っていなかった。
それでも、修平が美咲を好きになった理由の一つは、美咲が彼を覚え、言葉を返したことだった。
全部同時に本当なのかもしれない。
直人は、自分でも嫌になるくらい面倒な話だと思った。
誰かが悪いと言えた方が楽だった。
美咲が悪いなら、美咲を責めればいい。
修平が悪いなら、弱い人間だったと片づければいい。
死んだ人間と会話できる世界がおかしいなら、奇跡そのものを憎めばいい。
でも、どれか一つを選ぶたびに、何かが嘘になる。
直人はスマートフォンを机へ置いた。
少しして、また通知が鳴った。
美咲だった。
> 今日いる人ー?
以前なら、何となく返信していたかもしれない。
直人はしばらく投稿を見た。
返信欄には、すぐに人が集まり始めている。
> いるよ
> 仕事中
> 今帰った
美咲は一つだけ返した。
> いたー!
直人はいいねを押した。
それ以上は何もしなかった。
美咲に話しかけることが、誰かを壊す行為だとは思わない。
美咲から返事をもらうことが、危険なことだとも思わない。
修平にとっては違った。
その違いがどこにあったのか、直人には最後まで分からないのかもしれない。
窓の外から、救急車の音が聞こえた。
遠くから近づいて、また遠ざかっていく。
直人はカーテンを少し開けた。
道路を赤い光が横切っていった。
美咲の通知が、もう一度鳴った。
今度は開かなかった。
誰かを救えることと、
誰かを救わなければならないことは、
たぶん違う。
直人はそう思った。
それが正しいのかどうかまでは、分からなかった。




