二度と戻らない日々
あの日、彼女は死んだ。
美咲から「ちょっとしんどい時はある」と言われてから、遥香は以前ほど返信しなくなった。
完全に離れたわけではない。
投稿は見る。
いいねも押す。
たまに返信もする。
ただ、誰に返しているのかを追いかけたり、返信欄の奥まで読むことは減った。
少なくとも、自分ではそうしているつもりだった。
美咲から何か言われたから距離を取っている、とは思いたくなかった。
少し疲れただけ。
自分にも自分の生活がある。
毎日Xを眺めている必要なんてない。
そう考えれば、それほど難しいことではなかった。
沙耶とは、あれからも時々会っていた。
美咲の話だけをする関係から、少しずつ別の話も増えていた。
仕事の愚痴。
最近買った服。
行ってみたい店。
沙耶が好きな別のアイドルの話。
遥香は、そういう時間を案外嫌いではなかった。
ある休日、二人で買い物をしたあと、駅近くのカフェへ入った。
沙耶がスマートフォンをいじりながら言った。
「美咲ちゃん、今日めっちゃ返信してますね」
遥香は自分の画面を見なかった。
「そうなんだ」
「見てないんですか?」
「最近そんなに追ってない」
沙耶は少し意外そうだった。
「遥香さんが?」
「何その言い方」
「いや、一番見てそうだから」
遥香は笑った。
「そんな暇じゃないよ」
「私の方が見てるかも」
「かもね」
沙耶はそのままXを眺めていた。
「この人、最近めっちゃ美咲ちゃんに覚えられてますよ」
見せられた画面には、知らないアカウントがあった。
何度か会話が続いているらしい。
遥香は一度だけ見て、すぐに視線を外した。
「へえ」
「なんかすごいですよね。会ったことないのに」
「今はそういう人の方が多いでしょ」
「まあ、そうなんですけど」
沙耶は少し考えてから言った。
「私も今の美咲ちゃんしか知らないし」
遥香は顔を上げた。
「今の美咲?」
「うん。生きてた時は動画でしか知らないから」
沙耶は悪びれずに続けた。
「だから昔の話聞けるの、結構好きなんですよ。遥香さんとか、真帆ちゃんとかが知ってる美咲ちゃんって、私には絶対分かんないし」
その言葉に悪意はなかった。
むしろ純粋に羨ましがっている。
それでも遥香の中には、「今の美咲ちゃん」という言い方だけが残った。
生きていた頃の美咲。
今の美咲。
沙耶にとっては、自然に分かれているらしい。
遥香は今まで、そこまで意識したことがなかった。
もちろん死ぬ前と死んだ後で違いはある。
身体があるかどうか。
会えるかどうか。
ライブができるかどうか。
でも、美咲は美咲だった。
少なくとも、そう思っていた。
「遥香さん?」
沙耶に呼ばれて、我に返った。
「何?」
「聞いてました?」
「聞いてた」
「絶対聞いてなかった」
「聞いてたって」
沙耶は笑った。
その日の夜。
遥香は久しぶりに、昔の写真を開いた。
スマートフォンの中ではなく、部屋に置いてある箱を出した。
チェキ。
生写真。
ライブの半券。
生誕祭でもらったカード。
昔なら、時々眺めるものだった。
最近はほとんど触っていない。
一枚ずつ見ていく。
最初の頃の美咲は、今より少し幼く見えた。
髪も短い。
メイクも違う。
チェキには、手書きの文字が残っている。
《遥香ちゃん今日もありがと!》
《服かわいい!》
《また来てねー!》
遥香は次の写真を取った。
美咲が遥香の肩に顔を寄せている。
撮影の一瞬だけだった。
スタッフが合図をして、ポーズを決めて、数秒で終わる。
それでも、その瞬間は確かにあった。
別の一枚。
誕生日の少し前。
美咲が、
「遥香ちゃんにしか話せないんだけど」
と切り出した日。
ラーメンが食べたい。
でも最近太った。
過去最高。
あの時の声まで覚えている。
誰にも言わなかった。
約束したから。
今でも言っていない。
美咲が忘れていたとしても、自分は守っている。
美咲が「誰にも言わないで」と言ったから。
遥香は写真を膝の上に置いた。
Xを開けば、今の美咲がいる。
見知らぬファンと話している。
昔なら絶対に知らなかった人の仕事を覚えている。
誰に返すかは自分で決めたい。
今は今。
全部は分からない。
美咲が言った言葉を、一つずつ思い出した。
遥香はスマートフォンを伏せた。
箱の中の美咲は、何も言わなかった。
昔のまま笑っている。
その顔を見ている方が楽だった。
数日後、沙耶からまた連絡が来た。
> 昔の美咲ちゃんって、今よりファンと距離近かったんですか?
遥香はすぐには返さなかった。
質問の意味を考えた。
> 人によるかな
送る。
沙耶。
> 遥香さんは近かったですよね
遥香は画面を見た。
> まあ、長かったしね
> いいなー
その一言に、以前ほど素直に喜べなかった。
近かった。
たしかに近かった。
少なくとも、自分はそう思っていた。
それなら、今は何なのだろう。
距離を置きたい。
美咲からそう言われた。
遥香は返信をやめた。
その夜、またチェキの箱を開いた。
同じ写真を何度も見る。
「この頃の方がよかった」
誰に聞かせるでもなく、口から出た。
言ってから、少しだけ驚いた。
何が。
髪型か。
衣装か。
ファンとの距離か。
それとも、美咲そのものか。
遥香は答えを出さなかった。
一枚のチェキを手に取る。
美咲が笑っている。
遥香も笑っている。
この頃の美咲は、自分をちゃんと大事にしてくれていた。
そう思わないと耐えられなかった。
遥香の両目から、信じられないほどの量の涙が零れ落ちた。
一滴、また一滴と、チェキの中で笑っている美咲の顔を濡らした。
遥香は慌てて指で拭った。
けれど、滲んだ水滴はうまく取れなかった。




