おかえりって家族にかける言葉だと思っていた
あの日、彼女は死んだ。これは、僕から彼女に送る初めての”推し活”の物語ー
修平が帰宅時間を美咲に報告するようになったのは、いつからだったか自分でもよく覚えていなかった。
最初はたぶん、仕事で遅くなった日のことだった。
> まだ会社
そう書いたら、
> 遅!
> ちゃんと帰りなよー
と返ってきた。
それから数時間後、家に着いて、
> 帰宅
とだけ送った。
美咲から、
> おかえりー!
と返ってきた。
ただ、それだけだった。
でも、それが妙に気持ちよかった。
次に遅くなった日も、
> 帰宅
と送った。
その時は返信がなかった。
だからといって何も困らなかった。
風呂に入り、夕飯を食べ、ゲームをした。
翌朝見ると、美咲からいいねだけ付いていた。
修平はそれで十分だった。
そのうち、遅い日だけではなくなった。
定時で帰れた日。
飲み会のあと。
休日に買い物へ行った日。
家に着いた時、何となく一言書く。
> 帰宅
あるいは、
> ただいま
美咲が気づけば、
> おかえり
と返す。
気づかなければ、そのまま流れる。
それだけの習慣だった。
職場の人間に話せば、たぶん笑われると思う。
死んだアイドルに帰宅報告をしている。
文字にすると、自分でもかなり変だった。
だから誰にも言わなかった。
別に隠しているつもりもない。
説明するのが面倒なだけだった。
ある日、残業が長引いた。
月末で、処理しなければならない書類が多かった。
修平が会社を出たのは十時半を過ぎてからだった。
駅まで歩きながらXを開くと、美咲が少し前に投稿していた。
> まだ仕事の人いる?
修平は、
> 今終わった
と返した。
しばらくして、
> おつかれー
> 気をつけて帰りな!
と来た。
修平はそのまま電車に乗った。
乗り換え。
最寄り駅。
コンビニ。
いつもの帰り道。
自宅のドアを開けて、靴を脱ぐ。
部屋の明かりをつける。
スマートフォンを取り出した。
> 帰宅
送る。
すぐには返事がなかった。
修平はスーツの上着を脱ぎ、ネクタイを外した。
電子レンジで弁当を温める。
その間に通知が来た。
> おかえりー!
修平は、画面を見たまましばらく動かなかった。
家に帰った。
そのことを知っている人がいる。
昔なら、そんな発想すらなかった。
家に着けば一日が終わる。
誰かに知らせる必要はない。
それが普通だった。
今は、美咲に「帰宅」と送るまで、ほんの少しだけ一日が終わっていない感じがする。
修平は弁当を取り出した。
熱すぎて、少し手を引っ込める。
テレビをつける。
いつも通りの夜だった。
翌日。
昼休みに同僚と定食屋へ行った。
隣の席では別の部署の人たちが、家族の話をしていた。
「昨日子ども寝なくてさ」
「何時まで?」
「一時」
「地獄じゃん」
修平は聞くともなく聞いていた。
向かいの同僚が、
「岡田はそういうのないから楽でいいよな」
と言った。
「まあね」
「一人暮らし最強」
「それはそう」
修平は笑った。
本当にそう思っていた。
家に帰れば静か。
誰にも邪魔されない。
誰にも気を遣わない。
自分の好きなように過ごせる。
ただ、その日の帰り。
駅のホームで電車を待っている時、修平はXを開いた。
美咲の新しい投稿はなかった。
それでも、プロフィールまで開いた。
特に見るものはない。
数秒して閉じた。
自分でも、何を確認したかったのか分からなかった。
電車が来た。
乗る。
空いている席に座る。
そのまま動画を見始めた。
帰宅したのは七時過ぎだった。
修平は靴を脱ぎ、部屋へ入る。
スマートフォンを机へ置く。
少しして、手に取る。
> 帰宅
送信。
五分。
十分。
返信はない。
修平は夕飯を食べた。
ゲームもした。
一時間ほど経って、またXを開いた。
まだ何もない。
美咲は別の投稿には返信していた。
修平は一度画面を閉じた。
別に、全部に返すわけではない。
そんなことは最初から分かっている。
しばらくして、ゲームを再開した。
二時間後。
寝る前に、もう一度だけ通知を見る。
いいねが付いていた。
修平はそれを確認してから、スマートフォンを充電器につないだ。
「読んでるならいいか」
声に出してから、自分で少し引っかかった。
読んでるならいい。
何が。
考えかけて、やめた。
翌朝。
美咲から新しい投稿があった。
> おはよー!
修平はそれにいいねを押した。
出勤する。
会社に着く。
パソコンを立ち上げる。
いつもの一日が始まる。
昼前、美咲から通知が来た。
昨日の「帰宅」への返信だった。
> 昨日早かったじゃん!
修平は思わず画面を見直した。
昨日早かった。
つまり、美咲は普段の帰宅時間まで何となく覚えている。
> たまたま
返す。
少しして、
> いいことです!
と来た。
修平はそこでスマートフォンを伏せた。
仕事へ戻る。
書類を見る。
メールを返す。
それでもしばらく、頭の片隅に残っていた。
美咲は、自分がいつ帰るかを知っている。
正確な時間ではない。
住所を知っているわけでもない。
ただ、いつもより早かったことに気づいた。
それだけだった。
それだけなのに。
その日の帰り、会社を出たところで雨が降っていた。
傘を持っていなかった。
修平はコンビニまで走った。
傘を買う。
少し濡れた。
駅へ向かいながら思った。
今日は帰ったら、そのことも書こう。
家に着く。
> 帰宅
> 雨にやられた
送る。
美咲から返事が来る。
> おかえり!
> 風邪ひくなよー
修平はスマートフォンを置いた。
部屋はいつもと同じだった。
一人。
静か。
でも、以前ほど、その静けさが何もないものには感じられなかった。




