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友達だから

あの日、彼女は死んだ。これは、僕たちから彼女に送る最後の”推し活”の物語ー

七瀬真帆は、中川美咲のことが少し苦手だった。


嫌いというほどではない。そもそも、まだそれほど話したこともなかった。ただ、同じレッスン場にいると妙に目についた。


いつも笑っている。


スタッフに呼ばれれば「はい!」と返事をして、振付師に注意されれば「ありがとうございます!」と頭を下げる。先輩が来れば挨拶し、後輩が困っていれば声をかける。ファンの前へ出れば、さらに明るくなる。


十七歳だった真帆には、それが少し胡散臭く見えた。

そんな人間、いるわけがないと思っていた。


「中川ってさ」


ある日のレッスン終わり、真帆は更衣室で靴紐を結びながら言った。


「ん?」


隣で髪をまとめ直していた中川美咲が振り向いた。


「疲れないの?」


「何が?」


「ずっとそれ」


「それ?」


真帆は少し迷った。


「ニコニコしてんの」


中川美咲は数秒黙ったあと、自分の頬を触った。


「私そんな笑ってる?」


「笑ってる」


「へえ」


「へえ、じゃないでしょ」


「いや、自分じゃ分かんないもん」


本当に分かっていなさそうだった。

真帆は少し苛立った。


「別に、ずっと愛想よくしなくてもいいんじゃない」


「愛想?」


「スタッフとか、ファンとか。疲れててもずっと元気そうにしてるじゃん」


中川美咲はそこでようやく意味を理解したらしい。


「ああ」


「無理してんのかなって」


中川美咲は少し考えた。


「疲れてる時は疲れてるよ」


「じゃあ何で」


「でも、会えたら嬉しいじゃん」


「誰に」


「みんなに」


あまりにも普通に言うので、真帆は言葉に詰まった。

中川美咲は鞄の中を探りながら続けた。


「スタッフさんもいるし、メンバーもいるし、ファンの人も来てくれるし。嬉しかったら普通に笑わない?」


「……知らない」


「真帆あんまり笑わないもんね」


「喧嘩売ってる?」


「売ってない売ってない!」


中川美咲が慌てて手を振った。

その顔を見て、真帆は余計に胡散臭いと思った。

数週間後、真帆は忘れ物を取りにレッスン場へ戻った。

廊下の照明は半分ほど落ちていた。受付にもほとんど人はいない。もう誰もいないと思っていた。


スタジオの前を通った時、音が聞こえた。

同じ曲が何度も繰り返されている。

真帆はドアの小窓から中を覗いた。


中川美咲だった。


鏡の前で、一人で踊っている。


笑っていなかった。


真帆は少し意外に思った。


表情は真剣で、むしろ怖いくらいだった。曲を途中で止め、同じ振りを何度も確認する。足の位置を直し、鏡を見て、また最初から繰り返す。汗がしたたる、乱暴に腕で拭う。


一度、バランスを崩して尻もちをついた。


「痛っ」


誰も見ていないのに声が出たらしい。

そんな自分がおかしかったのか、中川美咲は床に座ったまま少し笑った。

それから立ち上がって、もう一度同じところを踊った。

真帆はその場を離れようとした。


その時、中川美咲が鏡越しにこちらへ気づいた。


「あ」


仕方なくドアを開ける。


「何してるの」


「見れば分かるでしょ」


「帰ったと思った」


「忘れ物」


「そっか」


中川美咲は今度はタオルで汗を拭いた。

真帆は床に置かれたペットボトルを見た。もうほとんどなくなっている。かなり長い時間やっていたのだろう。


「まだやるの?」


「もうちょっと」


「今日めっちゃやったじゃん」


「でもここ間違えたし」


中川美咲がさっき繰り返していた振りを軽くやってみせた。


「次のライブで間違えたくないから」


「別に一回くらい分かんないでしょ」


「分かるよ」


「誰が」


「私が」


そう言って、中川美咲はまた鏡の方を向いた。

真帆は少し黙った。

ファンに見せるためでもない。スタッフに褒められるためでもない。そもそも、誰も見ていなかった。


「……中川ってさ」


「ん?」


「結構まじめだよね」


中川美咲が振り返った。


「今さら?」


「自分で言うな」


「だって私ずっと真面目だよ」


「そういうとこ」


「何それ」


中川美咲が笑った。

真帆も少しだけ笑った。


その日を境に、真帆の中で何かが急に変わったわけではない。ただ、中川美咲の笑顔を見た時に「またやってる」と思うことが少なくなった。


二人が本格的に話すようになったのは、それからだった。


レッスンの待ち時間に隣へ座る。帰りの電車が同じ方向なら途中まで一緒に帰る。中川美咲は思ったよりどうでもいい話をよくした。


昨日何を食べたとか、最近寝つきが悪いとか、いつものコンビニで新作リップを購入しただとか。

ある日、中川美咲は真帆のスマートフォンを覗き込んだ。


「何見てるの?」


「服」


「買うの?」


「迷ってる」


「こっち」


中川美咲は一秒で指さした。


「早」


「絶対こっち」


「何で」


「真帆こっちの方が似合うもん」


「適当」


「適当じゃないし」


「じゃあ買って」


「何で私が」


真帆は笑った。

そういう会話が増えた。

いつの間にか、真帆は中川美咲を「中川」ではなく「美咲」と呼ぶようになっていた。


ある握手会の日。

真帆は朝から少し機嫌が悪かった。

前日のライブで振りを一ヶ所間違えたことを引きずっていたし、SNSにもそのことを書いているファンがいた。大半は気にしていなかったが、一件だけ妙に刺さる投稿があった。


 七瀬またミスってた

 あの子ほんとやる気ないよね

 美咲ちゃん見習えばいいのに


名前を検索した真帆自身が悪いと言えば、それまでだった。

しかも最後に美咲の名前まで付いている。

余計に腹が立った。

握手会が始まっても、真帆はなるべく普段通りにしていた。

ファンの前で機嫌を悪くするほど子どもではないつもりだった。


何人目かの客が来た。


見覚えがあった。


さっきの投稿をしたアカウントと同じ名前を名乗った。


「昨日のライブ行ったよ」


「ありがと」


「またミスってたね」


真帆は一瞬だけ黙った。


男は笑っていた。


冗談のつもりなのだろう。


「ちゃんとしてよー。美咲ちゃんはちゃんとやってるじゃん」


真帆は笑おうとした。


うまくできなかった。


スタッフが時間を告げ、男はそのまま隣の列へ移った。

美咲の列だった。

特典会が終わったあと、美咲が真帆のところへ来た。


「真帆」


「なに」


「さっきの人、誰?」


真帆は鞄へ荷物を入れながら答えた。


「さっきの人?」


「昨日のミスのこと言ってきた人」


「聞いてたの?」


「聞こえた」


「別にいいよ」


美咲の顔が少し変わった。


「よくないでしょ」


「ファンじゃん」


「ファンでもダメ!」


真帆は手を止めた。

美咲は明らかに怒っていた。

いつものように笑っていない。


「何がダメなの」


「ああいう言い方」


「間違えたのは本当だし」


「だからって言っていいことと悪いことあるじゃん」


「別に私は気にしてない」


「嘘」


即答された。

真帆は眉を寄せた。


「何で美咲が怒ってんの」


「真帆にそんなこと言うの普通にダメでしょ」


「本人がいいって言ってんだけど」


「よくない!」


美咲は少し考えてから、さらに言った。


「次の握手会、私のとこ呼んで」


「は?」


「私が怒る」


「やめて」


「何で」


「何でファンと喧嘩しようとしてんの」


「喧嘩じゃないし。怒るだけ」


「同じでしょ」


「違う!」


真帆は呆れて美咲を見た。

本気だった。

ファンからどう見られるとか、人気に響くとか、そんな計算をしている顔ではない。

ただ、腹を立てている。


「……何でそこまですんの」


真帆が聞くと、美咲は一瞬だけきょとんとした。

それから、当然のように言った。


「友達だから!」


真帆は何も返さなかった。

返せなかった、という方が近い。


美咲はまだ何か言っている。「次来たら絶対言う」「真帆が言えないなら私が言う」「でも出禁になったら困るから優しく言う」などと、怒っているのか冷静なのか分からないことを一人で喋っていた。


真帆は途中から半分しか聞いていなかった。


ー友達だから


その言葉だけが残っていた。


帰宅してから、真帆は例の投稿をもう一度見た。


朝ほど腹は立たなかった。


代わりに、美咲の顔を思い出した。

あんなに怒っているところを初めて見た。

真帆は美咲へDMを送った。


>絶対ファンに怒るなよ


すぐに返ってきた。


>なんで!


>当たり前でしょ


>でも頭来るよ


>私のことだからほっといて


少し間が空いた。


>じゃあ次言われたら教えて


>教えない


>教えて


>やだ


>真帆


>しつこい


>心配してるのに!


真帆は画面を見ながら笑った。


>はいはい


と送る。


すぐに、


>はいは一回!


と返ってきた。


「うるさ」


声に出した。


でも、画面は閉じなかった。

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