メメント•キミ
あの日、彼女は死んだ。これは、僕たちから彼女に送る最後の”推し活”の物語ー
佐伯直人が初めてアイドルのライブへ行ったのは、二十三歳の時だった。
きっかけは、友人の健太から来た短いメッセージだった。
>土曜空いてる?
直人はその日、特に予定がなかった。
>空いてる
返してすぐに、
>ライブ行こうぜ
と来た。
直人は少し眉を寄せた。
>誰の?
>メメント・キミ
聞いたことのない名前だった。
検索すると、六人組の女性アイドルが出てきた。色の違う衣装を着た若い女の子たちが並んで笑っている。フォロワー数も、芸能人として考えればそこまで多くない。
直人は画面を閉じた。
>俺そういうの興味ないけど
>チケット余った
>そういうことね
>行く?
少し考えて、
>行ってもいい
と返した。
当日、健太に連れられて入ったライブハウスは、直人が想像していたよりずっと狭かった。
200人も入ればいっぱいになりそうな箱だった。すでに会場は人で埋まり、前方ではペンライトを持った客が場所を確保している。スピーカーから流れる音楽が妙に大きく、まだライブが始まってもいないのに、普通に話すには少し声を張る必要があった。
「推し、決めたか?」
健太が聞いた。
「いや、、」
「じゃあ美咲推しになれよ」
「美咲?」
「黄色の子、俺の推し」
「お前と一緒じゃまずいんじゃないか?」
「なんでだよ笑」
「いや、よくわかんないけど」
「前行く?」
「いや、ここでいい」
「見える?」
「別に見えなくてもいい」
「お前、何しに来たんだよ」
直人は笑った。
実際、その程度の気持ちだった。
アイドルというものを嫌っていたわけではない。ただ、テレビや動画の中にいる人たち、という感覚が強かった。自分が金を払って会いに行く対象だとは考えたことがなかった。
照明が落ちた。
客席から一気に声が上がる。
直人は少し驚いた。
想像より近い。
後ろの方だと思っていたのに、ステージまでほんの数メートルだった。
六人が出てくる。
音楽が始まる。
最初の一曲で、直人はすぐに一人の女の子を目で追うようになった。
黄色い衣装、中川美咲だった。
別に、健太に言われたからじゃなかった。
初めて見た印象は
写真で見るよりかわいいな。
ではなかった。
よく動く子だな。
それも、その場で飛んだり跳ねたりするだけじゃあない。
前の客に向けて大きく笑ったかと思えば、端の方へ身体を向けて手を振る。少し後ろの客へ視線を投げ、何かを見つけると、チラリと表情が変わる。
その繰り返しだった。
直人は、歌が上手いとか、ダンスが上手いとか、そういうことはよく分からなかった。
たぶん、もっと上手い人はいくらでもいる。
けれど、美咲はずっと客席を見ていた。
目の前にいる人だけではなく、奥の方まで。
二曲目の途中、美咲が一度だけ振りを遅らせた。
ほんの一瞬だった。
隣のメンバーが少し早く前へ出て、美咲が半拍遅れて追いつく。
直人には、それが妙に印象に残った。
失敗した。
たぶん本人も分かっている。
でも、その直後にはもう笑っていた。
何事もなかったように。
それが、作られた笑顔には見えなかった。
失敗したから笑ったわけでもない。
見られているから仕方なく笑っているわけでもない。
ただ、本当に楽しそうだった。
途中のMCで、一人ずつ自己紹介があった。
「中川美咲です!」
客席から名前が返ってくる。
「みさきー!」
美咲は嬉しそうに手を振った。
「今日、後ろの方までちゃんと見えてるからねー!」
さらに歓声が上がる。
直人は少しだけ姿勢を変えた。
後ろの方。
自分たちも、その範囲に入っているのだろうか。
そんなことを考えた自分に、少し驚いた。
ライブが進むにつれて、直人はだんだん客席の雰囲気にも慣れていった。
周囲が手を上げれば、何となく自分も上げる。
健太に「そこ声出すとこ」と言われれば、適当に合わせる。
美咲が煽れば、客席が応える。
最初はそれを一歩引いて見ていたはずなのに、気づけば何度か笑っていた。
終盤のMCで、美咲が少し噛んだ。
「次の曲で、えっと、私たちの最後の……最後の今日?」
隣のメンバーが吹き出した。
「何それ」
客席も笑う。
美咲は一瞬固まったあと、自分でも笑った。
「違う違う!今日の最後の曲!」
笑いながら言い直す。
健太も笑っていた。
直人も笑った。
そして、なぜかその瞬間に思った。
この人は、ちゃんとここにいる。
テレビの中でも、遠くの世界でもない。
今、目の前で間違えて、笑われて、自分でも笑っている。
そのことが、思っていたよりずっと面白かった。
ライブが終わると、健太は当然のように特典会の列へ向かった。
「帰る?」
直人が聞いた。
「いや、チェキ」
「まだあるの?」
「ここからだろ」
「長いな」
「お前も行く?」
「行かない」
即答した。
健太は「はいはい」と笑い、列へ消えた。
直人は壁際でスマートフォンを見ながら待った。
十分。
二十分。
人の流れを見る。
さっきまでステージにいたメンバーが、今は客と一対一で話している。
美咲はそれなりに人気があるのだろう。
列はそこそこ長かった。
直人は何度かそちらを見た。
別に興味はない。
そう思っていた。
健太が戻ってきた。
「終わった」
「長」
「行けばよかったのに」
「何話すんだよ」
「ライブ初めてでした、とか」
「それだけ?」
「それでいいんだよ」
直人はもう一度、美咲の列を見た。
さっきより少し短くなっている。
「今からでも行ける?」
健太が笑った。
「行くんじゃん」
「別に。一回だけ」
「はいはい」
列に並んでから、直人は少し後悔した。
前に進むほど、何を話せばいいのか分からなくなる。
名前を聞かれるのか。
何秒くらいなのか。
握手するのか。
健太にもう少し聞いておけばよかった。
気づけば、前の客が離れていた。
美咲が直人を見る。
近い。
ステージで見た時より、ずっと普通の女の子に見えた。
「ありがとー!」
明るい声だった。
直人は少し間を置いて、
「ライブ、初めて見た」
と言った。
「ほんと?」
「うん」
「どうだった?」
直人は少し考えた。
考えた結果、なぜか出てきたのは、
「思ってたより、ちゃんとしてた」
だった。
美咲が目を丸くした。
「なにそれー!」
すぐ笑う。
直人も笑った。
「いや、もっとこう……適当なのかと思ってた」
「ひど!」
「ごめん」
「でも楽しんでたでしょ?」
「まあ」
「じゃあいいじゃん!」
スタッフに時間を告げられる。
美咲が最後に、
「また来てね!」
と言った。
直人は軽く手を上げて、その場を離れた。
健太が少し離れたところで待っていた。
「どうだった?」
「行った」
「知ってる」
「それだけ」
「終わったな」
「何が」
「いや、別に」
健太は笑った。
「まだ終わってないだろ」
直人は少しだけ振り返った。
美咲はもう次の客と話していた。
さっきと同じように笑っている。
自分だけに向けたものではない。
そんなことは最初から分かっていた。
でも、別に嫌ではなかった。
ほんの一分程度の、わずかな時間だった。
それでも帰りの電車の中で、直人は一度だけ「中川美咲」と検索した。
そこには、ライブ後の投稿が上がっていた。
今日来てくれたみんなありがとー!
初めて来てくれた人もいたみたいでうれしかった!
直人は、その文章を少しだけ長く見た。
自分のことではない。
たぶん。
そう思いながら、いいねを押した。




