死んだアイドルと僕たちの推し活事情 ~佐伯直人の場合~
あの日、彼女は死んだ。これは、僕たちから彼女に送る最後の”推し活”の物語ー
朝六時五十八分。佐伯直人は、枕元で震えたスマートフォンに手を伸ばした。
アラームではなかった。薄暗い部屋の中で画面を点けると、Xの通知が一件表示されている。直人はまだ半分も開いていない目で、その名前を確認した。
中川美咲。
おはよ~~~
今日ぜったい寝坊すると思った!あぶなかった!!笑
投稿されたのは一分前だった。
直人は布団の中でしばらくそれを眺め、それから返信欄を開いた。すでに何十件も「おはよう」が並んでいる。朝が早い仕事の人、これから寝るらしい人、学校へ行く準備をしている人。いつもの顔ぶれもいれば、見たことのない名前もあった。
直人も、
おはよう
とだけ送った。
スマートフォンを置いて起き上がろうとしたところで、もう一度通知が震えた。
おはよ~!あやうく寝坊するとこだった!笑
「……知ってるよ」
誰もいない部屋で、直人は言った。
洗面所へ向かいながら、少し笑った。
中川美咲は、187日前に死んだ。
死因は急性心筋炎。二十一歳だった。
亡くなった翌朝、所属事務所が発表した文章は、当時何度も読み返したせいで直人はいまだにだいたい覚えている。
「突然のお知らせとなりましたことを深くお詫び申し上げます」「あまりにも早い別れに、メンバー、スタッフ一同、現実を受け止めきれずにおります」
よくある、と言ってしまえばそれまでの、よくある訃報の文章だった。
葬儀は近親者のみで執り行われ、所属していたアイドルグループも五人で活動を再開した。生前に撮影された写真や動画は残っていたが、当然ながら新しいものは増えなかった。
それなのに、美咲のXだけは更新されている。
朝になれば眠そうだと言い、昼になれば誰かの弁当を羨ましがり、夜にはファンの仕事の愚痴を聞く。ニュースの話もする。昨日投稿された猫の動画を見て笑うし、数日前にファンから勧められた漫画の感想を返すこともある。
誰かが過去の文章を自動投稿しているわけではない。
AIでもない。予約投稿でもない。
少なくとも、今ではそういう説明を本気で信じている人間は少なかった。
美咲は今日のことを知っている。昨日のことを覚えている。そして、生きていた頃の美咲しか知らないはずのことも知っている。
だから世間は、ひどく雑な形で結論を出した。
中川美咲は死んだ。けれど、中川美咲はXにいる。
二つとも事実として扱えば、とりあえず話は進む。
通勤電車の中で、直人はもう一度Xを開いた。
美咲の朝の投稿には100件以上の返信が付いていた。生きていた頃、美咲のフォロワーは2万3481人だった。それでも十分すごいと思っていたし、「もっと見つかってほしい」とファン同士で何度も話していた。
今では、その10倍以上いる。
死んでから初めて美咲を知った人間も多い。
今日初めて知りました
昔のライブ動画ずっと見てる
もっと早く知りたかった
そんな言葉を見るたび、直人はいまだに同じことを思う。
遅いよ。
別に責める資格があるわけではない。美咲が生きていた頃に彼らが何をしていたかなど、直人には関係がない。それでも、遅いと思う。
美咲自身は気にしていないらしかった。
今からでも知ってくれたならうれしいよー!
今日もそんな返信をしている。
それが美咲だった。
昼休み、会社近くのコンビニで買ったおにぎりを食べながら、直人はまたXを開いた。
美咲が新しく投稿していた。
みんな夕飯なに食べるの~~
私に食べ物の写真を見せつける会ですか???
まだ昼なのに、もう夕飯の話をしている。
返信欄にはカレー、ラーメン、定食、昨日食べた焼肉まで、頼まれてもいない写真が大量に貼られていた。美咲はそのいくつかに「ずるい!」「それ好きだった!」「野菜も食べなさい!」と返している。
その中に、
課題の締切ミスって死んでます
という返信があった。
知らないアカウントだった。
少しして、美咲が返した。
死ぬなーーー!笑
ミスくらいするって!帰ったら好きなもの食べよ!
その人から、
ラーメン食べます
と返ってくる。
いいじゃん!食べて寝たら明日!
直人はそこまで読んで、スマートフォンを伏せた。
向かいの席では同僚がカップ麺の蓋を押さえながら、別の同僚と昨日の野球について話していた。給湯室から電子レンジの音がする。誰かの電話が鳴る。
美咲も、たぶん今のやり取りをしている。
そう考えると、普通だった。
恐ろしく普通だった。
世間は美咲を「死後もXを更新する奇跡のアイドル」と呼んだ。
テレビの特集でも、ネット記事でも、ほとんど同じ言葉が使われた。
直人はその呼び方が嫌いだった。
奇跡ーーー
直人にとって、Xにいるのはただの美咲だった。死ぬ前に知っていた美咲と同じように、くだらないことで笑い、眠いと言い、ファンに余計な世話を焼く。
ただし、会えない。
そこだけは、どうやっても変わらなかった。
夜、直人はベッドに寝転び、昔のライブ映像を流していた。
画面の中で美咲が歌っている。
息を切らして、汗で前髪を額に貼りつけながら、それでも客席へ向かって笑っていた。曲が終わると、少し荒い呼吸のまま「ありがとー!」と叫ぶ。
その声は何度でも聞ける。
けれど、それは一年前の声だった。
動画を止めてXを開く。
そこには三十秒前の美咲がいた。
眠くなってきた~~
直人は、
寝れば?
と返した。
少しして、
えー!まだ寝ないもん!!笑
と返ってくる。
直人はその文章を見た。
頭の中では、美咲の声で再生できる。
「えー!」と少し頬を膨らませる顔も、たぶん想像できる。
でも、それは想像だった。
新しい文章はいくらでも増える。
新しい声は増えない。
新しい写真も、ライブ映像も、握手した時の体温も増えない。
画面の中には、過去の美咲と現在の美咲が同時にいる。その二人は同じ人間なのに、どうやっても一つにはならなかった。
直人はしばらくスマートフォンを伏せられなかった。
眠いなら寝ればいい。
明日また起きればいい。
そんな当たり前のことを、美咲にはもう言えない気がした。
それでも数分後、美咲は別のファンに返信していた。
そっちこそ早く寝なさい!笑
直人は少し笑った。
死んで半年が過ぎても、こういうところは何も変わらない。
そして美咲は、今日も寝坊しかけている。




