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孤独という毒の特効薬

あの日、彼女は死んだらしい。これは、僕たちから彼女に送る最初の”推し活”の物語ー

岡田修平の職場では、月に一度くらい、どうでもいいことで妙に盛り上がる日があった。


その日は部長だった。


昼休みが終わる少し前、部長が自分の眼鏡を探してフロアを一周した。


誰も最初は止めなかった。


本人があまりにも自然な顔で歩いていたからだ。


二周目に入りかけたところで、若い社員が声をかけた。


「部長、何探してるんですか?」


「俺の眼鏡」


数秒の沈黙のあと、近くにいた全員が笑った。


「そこですけど」


指を差された部長は、自分のデスクを見た。


座れば一番に目につくような特等席に、眼鏡が堂々と鎮座していた。


「ああ」


部長本人が一番大きな声で笑った。


「何やってんだ俺」


修平も、思わず笑っていた。


午後になっても、その話は何度か蒸し返された。


「部長、今日帰れます?」


「玄関分かります?」


「うるさい」


部長も機嫌よく返していた。


夕方には、もう誰も話題にしなくなった。


修平も仕事へ戻った。


メールを返し、資料を直し、明日の予定を確認する。


いつも通りだった。


定時を少し過ぎた頃、パソコンを閉じた。


エレベーターを待ちながらスマートフォンを取り出した時、昼のことを思い出した。


美咲に話そう。


その考えが浮かんでから、修平は自分で少し妙に思った。


面白かったから。


たぶん、それだけだった。


電車に乗ってからXを開く。


美咲は夕方に、


> 今日なんかあったー?


と投稿していた。


ちょうどいい。


修平は返信した。


> 部長が自分の席にある自分の眼鏡見失ってた


十分ほどして通知が来た。


> どういうこと笑


> 自分の眼鏡探して会社歩き回ってた


> かわいそう笑


> 全員にいじられてた


> もっとかわいそう笑


修平はそこで終わりにした。


翌日、部長は普通に自分の席へ座っていた、もちろん眼鏡をかけて。


当たり前だった。


修平はそれを見て、昨日の美咲の返信を思い出した。


仕事中にXを開いたりはしなかった。


帰りにまた見る。


それくらいでちょうどよかった。


そんな日が増えていった。


会社の近くに新しい弁当屋ができた日は、食べてから「当たりだった」と書いた。


帰宅途中に信号無視をした自転車が警察官の目の前を走り抜け、そのまま呼び止められていた日は、そのことを書いた。


ゲームで妙なバグを見つけた時も、美咲がその作品を知らないと分かっていながら送った。


返事が来ない日もあった。


そういう時は、それで終わった。


翌日には別のことをしていた。


ただ、何かが起きた時に一度、


美咲に話せるな、


と思うようになっていた。


以前は、出来事は出来事のまま終わっていた。


昼に笑ったことは、午後には薄れていく。


腹が立ったことも、家へ帰ってゲームを始めればどうでもよくなる。


それで困らなかった。


今は、帰る頃まで覚えていることがある。


誰かに聞かせるほどではないような話ほど、妙に残った。


ある休日、修平は数週間遊んでいたゲームをクリアした。


午前中から始めて、最後のボスを倒したのは夕方だった。


エンディングが流れる。


スタッフロールを最後まで見たあと、修平はコントローラーを机へ置いた。


満足した。


思っていたより良いゲームだった。


終盤の展開も好きだったし、最後の演出も悪くなかった。


そこでスマートフォンを手に取った。


美咲のXを開く。


新しい投稿はなかった。


修平は少し迷ってから、以前の雑談投稿に返信した。


> ゲームクリアした


一時間経っても返事はなかった。


修平は夕飯を作った。


風呂にも入った。


別の動画を見た。


寝る前にもう一度Xを開くと、通知が来ていた。


> あ、前言ってたやつ?


修平は文章を読み返した。


前言ってたやつ。


ゲームのタイトルまで書いたのは、たしか何週間か前だった。


> そう


> どうだった?


修平は少し考えた。


今までなら「面白かった」で済ませるところだった。


けれど、その日はもう少し書いた。


> 最後はよかった

> 途中だるかったけど


美咲。


> じゃあ結局よかったんじゃん笑


> まあね


そこで返信は止まった。


修平はスマートフォンを閉じなかった。


画面には、美咲との短いやり取りが残っている。


このゲームをクリアしたことを知っている人間は、誰だろう。


職場ではゲームの話をしない。


学生時代の友人にも連絡していない。


SNSにも、ほかには書いていない。


美咲だけだった。


その事実が、妙だった。


死んだアイドル。


会ったこともない。


声を直接聞いたこともない。


なのに、自分が数週間かけて一本のゲームを終えたことを知っているのは、その人だけだった。


修平はしばらく画面を眺めたあと、Xを閉じた。


深く考えるほどのことではない。


そう思った。


翌週、職場で新人が大きな段ボール箱を運んでいた。


前が見えていない。


危ないなと思った瞬間、曲がり角から別の社員が出てきた。


二人とも慌てて止まり、箱だけが床へ落ちた。


中身はコピー用紙だった。


誰も怪我はしなかった。


新人が何度も頭を下げ、ぶつかりかけた社員は「こっちも見てなかったから」と笑っていた。


修平も手伝って散らばった紙を拾った。


席へ戻る途中で思った。


これも美咲に話せそうだ。


その瞬間、修平は自分で気づいた。


以前より、話したいことが増えている。


何か特別な出来事が増えたわけではない。


会社も同じ。


仕事も同じ。


自分の生活も、たいして変わっていない。


ただ、誰かに話す前提で見ると、一日は思っていたよりいろいろ起きていた。


帰りの電車でXを開く。


美咲はまだ何も投稿していなかった。


修平はそのまま閉じた。


家へ帰る。


夕飯を食べる。


ゲームをする。


夜十一時を過ぎてから通知が来た。


> 今日みんな何してたー?


修平は返信欄を開いた。


昼の段ボールのことを書く。


送信する直前で、ふと思った。


別に、美咲が聞きたがっている話ではない。


面白いかどうかも怪しい。


それでも送った。


> 今日会社で段ボール同士が正面衝突してた


数分後。


> 人じゃなくて段ボール同士なの?笑


修平は、


> 持ってる人同士


と返した。


美咲からの返信は、それきり来なかった。


修平も待たなかった。


ただ、今日のことを話せた。


それで充分だった。


翌朝、通勤電車の中で昨日のやり取りを見返した時、修平はあることに気づいた。


最近、自分は出来事そのものより先に、


これをどう話そうか、


と考えることがある。


その変化を、修平はまだ大げさには捉えていなかった。


何気なく開いた通知欄には、昨日の返信に美咲からいいねが付いているのが見えた。


俺の返信をちゃんと読んでくれている。


次は何を話そうか。


誰かに話したいことがある。


それだけなら、たぶん悪いことではなかった。

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