誰も、なにも、ただ、自分だけが。
あの日、彼女は死んだ。これは、僕たちから彼女に送る最後の”推し活”の物語ー
健太から結婚すると聞いた時、直人は思ったより普通に驚いた。
「いつからそんな話になってたの」
「結構前から」
「聞いてないけど」
「聞かれてないから」
「友達だろ」
「じゃあお前、美咲の話以外で俺に最近何話した?」
直人は少し考えた。
「仕事」
「愚痴だろ、それ」
健太が笑った。
二人は駅前の居酒屋にいた。昔ならライブ終わりによく寄っていた店とは別の場所だった。健太が選んだ店だ。結婚相手と何度か来たことがあるらしい。
「式、来てよ」
「行くよ」
「ちゃんとした服持ってる?」
「あるわ」
「ならよし」
健太はビールを飲んだ。
直人もグラスを傾ける。
「いつ?」
「秋」
「もうすぐじゃん」
「そうだよ」
「忙しい?」
「まあまあ。でも楽しいよ」
健太はそう言って、スマートフォンを見せた。
家具の写真。式場の写真。
二人で試着したという指輪。
直人は一つずつ見た。
どれも、美咲とは関係のないものだった。
健太は生前、美咲を一緒に推していた。
むしろ最初に直人をライブへ連れていったのは健太だった。
その健太が今は、結婚式場のテーブルクロスの色を白にするか青にするかで悩んでいる。
あの頃なら即決で美咲のメンバーカラーの黄色にしていただろう。
「最近、美咲見てる?」
直人が聞いた。
健太は少し考えた。
「たまに」
「たまに?」
「うん」
「前より?」
「全然見てない」
言い方は軽かった。
直人は少し意外だった。
「何で」
「何でって言われても」
健太は焼き鳥を一本取った。
「別に嫌いになったわけじゃないよ。流れてきたら見るし、今でも好きだし」
「じゃあ何で」
「生活変わったからじゃない?」
それだけだった。
健太自身も、明確な答えを持っていないようだった。
「結婚するから?」
「それだけじゃないけど。仕事もあるし、他に見るもん増えたし」
「ふうん」
「お前はまだ結構見てんの?」
「まあ」
「毎日?」
直人は返事をしなかった。
健太はその顔を見て笑った。
「まだ見てんじゃん」
「別にいいだろ」
「悪いって言ってないよ」
本当に、責める感じはなかった。
その帰り、直人は駅のホームで美咲のXを開いた。
新しい投稿があった。
> 今日みんな何してたー?
直人は少し迷って、
> 飲んでた
と返した。
数分後、美咲から、
> いいなー!誰と?
と来た。
> 健太
少しして、
> え!健太くん元気?
直人は画面を見た。
美咲も覚えている。
昔、何度も一緒にライブへ来ていた。
> 元気。結婚するって
今度は返事が少し遅かった。
> えーーー!!
> おめでとうって言っといて!!
直人は少し笑った。
> 言っとく
それで終わった。
美咲は、健太が以前より自分を見なくなったことを知らないのかもしれない。
知っていても、特に何も言わないのかもしれない。
どちらでもよかった。
数日後、直人は久しぶりに昔のファンの投稿を見つけた。
名前は知っている。
生前のライブにもよく来ていた。直人と特別親しかったわけではないが、現場で何度も見かけていた人だった。
その人が、美咲への返信を書いていた。
> 美咲ちゃん、たぶんこれで最後にするね
> 今までありがとう
> ずっと好きだったし、今も好きだけど、最近はもう前みたいに追えてなくて
> 中途半端に残ってるのも違うかなと思った
> 元気でね、って言うのも変だけど笑
直人は指を止めた。
返信欄には何人かが反応していた。
「やめちゃうの?」
「寂しい」
「美咲ちゃんいるのに?」
そんな言葉。
美咲からの返信は、少しして付いた。
> こちらこそありがとー!
> 今までいっぱい来てくれてたの覚えてるよ
> また気が向いた時に見にきてね!
それだけだった。
引き止めなかった。
「ずっといて」とも言わなかった。
「ファン辞めないで」とも言わなかった。
直人はそのやり取りを長く見ていた。
昔、その人が美咲の生誕祭で黄色いペンライトを大量に用意していたのを覚えている。
地方のライブにもいた。
特典会で何度も列に並んでいた。
美咲も、それを覚えていると言った。
それでも、行くという人を止めなかった。
直人はー
自分の中に、いつの間にか「美咲がいる限り見続けなければならない」ような感覚ができていた。
誰に言われたわけでもない。
美咲にも言われていない。
むしろ、美咲は今、離れていくファンに普通に手を振っている。
その夜、直人は美咲の投稿を遡った。
「ずっといて」と言われた記憶を探したわけではない。
でも、似たような言葉があった気がした。
> また来てね!
> 次も待ってる!
> もっといっぱい話そ!
生前の美咲は、よくそんなことを言った。
アイドルとして当たり前の言葉だった。
直人も嬉しかった。
死後も、
> また明日ー!
> いっぱい話そ!
と書く。
でも、それは約束ではない。
まして、命令でもない。
直人はスマートフォンを置いた。
誰も縛っていない。
その考えは、思っていたより簡単だった。
簡単すぎて、逆に腹が立った。
自分が毎朝確認していたのも。
更新が遅いと不安になったのも。
通知を切って余計に見るようになったのも。
全部、全部、自分のせいだ。
美咲は、ただそこにいるだけだった。
今までも、
そして、これからも
翌朝。
直人はいつも通り目を覚まし、スマートフォンに手を伸ばした。
そこで少し止まった。
見なくて、いいか。
そう思った。
義務も、使命も、約束も
全部自分で取り付けたものだった。
良いんだ、俺はもう。
と思いながら、結局Xを開いていた。
美咲はもう投稿していた。
> おはよー!
いつも通りだった。
直人はいいねを押して、それで終わった。
以前なら返信したかもしれない。
その日は、しなかった。
会社へ向かう途中、駅前で犬を散歩させている人がいた。犬が急に植え込みへ突っ込もうとして、飼い主が慌ててリードを引いている。
駅に入ると、ちょうど電車の到着を知らせるアナウンスが聞こえてきた。
誰かが慌てて階段を駆け上がっていく。
降りてくる人にぶつかりそうになりながら、器用に体をくねらせている。
美咲の通知は、その間にも一度来た。
直人はポケットの中で震えたスマートフォンを、そのままにした。




