最後よりも先にある最初のおやすみ
あの日、彼女は死んだ。これは、僕たちから彼女に送る最後の”推し活”の物語ー
美咲が戻ってきて三日目の夜、直人はまだ一度もまともに話しかけていなかった。
朝の投稿を見る。昼の返信を見る。夜になればまたアカウントを開く。それでも、自分から何かを書くことはほとんどなかった。
理由を説明しろと言われても困る。
怖かったのだと思う。
美咲本人であることを認めれば、今度は別のことを認めなければならない。
死んだ美咲と、また話せる。
そんなことを、どう受け止めればいいのか分からなかった。
美咲の方は、日に日に普段の調子へ戻っていた。
> 今日なんか曜日感覚なくなってる笑
> え、今日木曜!?
> ずっと日曜みたいな感じする
誰かが、
> 毎日日曜なら最高じゃん
と返す。
美咲は、
> 最初だけだよ絶対!
> 途中から暇すぎるって!
と返していた。
直人はそのやり取りを読んで、少しだけ違和感を覚えた。
暇。
美咲はそういう言葉を使う。
眠い。疲れた。退屈。
生きている人間と同じように。
でも、何をしているのかは誰にも分からない。
夜十一時を過ぎた頃、美咲が投稿した。
> 眠くなってきた~~
直人は画面を見た。
以前なら、何も考えずに返したかもしれない。
寝れば。早く寝ろ。どうせまた朝起きられないんだから。
そんなことを何度も言った。
返信欄には、
> おやすみ!
> 無理しないで寝なよ
> 今日もありがとう
> また明日ね
という言葉が並んでいた。
また明日。
直人はその四文字を見た。
美咲が死んでから七十二日間、その言葉は使えなかった。
また明日。
次があることを前提にした言葉。
明日になれば新しい美咲がいるという約束。
直人は返信欄を開いた。
文字を打つ。
> おやすみ
十秒ほど画面を見つめたまま、
直人はゆっくりとスマートフォンを閉じようとした。
ピコン、と画面の上部にその名前が表示される。
中川美咲。
> 直人くんもおやすみー!
直人は動かなかった。
直人くん。
名前を呼んだ。
おやすみ。
自分に向けて返した。
直人はスマートフォンを握ったまま、ベッドへ座った。
なぜか泣きそうになって、代わりに少し笑った。
「何なんだよ」
小さく言った。
もう一度読む。
> 直人くんもおやすみー!
視界が滲んだ。
美咲が死んだと知らされた日、直人はほとんど泣かなかった。
葬儀の話を聞いた時も、五人になったライブを見た時も、涙が出ることはあったが、声を上げて泣くようなことはなかった。
今は、止まらなかった。
悲しいのか、嬉しいのか、自分でも分からなかった。
たぶん両方だった。
もう二度と増えないと思っていた美咲の言葉が、今、自分に向かって一つ増えた。
おやすみ
あまりにも普通だった。
直人は袖で目元を拭いた。
返信しようと思った。
何を書けばいい。
ありがとう。
戻ってきてくれて。
会いたかった。
本当に美咲なのか。
全部違う気がした。
結局、何も返さなかった。
美咲は別の人にも返信していた。
> ほんとに寝るの?
> たぶん!
> たぶんなんだ笑
直人はそれを見て、また少し笑った。
翌朝。
アラームが鳴る前に目が覚めた。
直人は反射的にXを開いた。
美咲の投稿はまだない。
胸の奥が少し冷えた。
六時四十分。
ない。
六時五十分。
ない。
直人は自分でも馬鹿だと思った。
昨日、寝ると言っていた。
朝七時前に必ず投稿する決まりなんてない。
生きていた頃だって、昼まで寝ていたことくらいある。
それでも、七時を過ぎても何もないと、落ち着かなかった。
七時十一分。
> おはよー!!
> めっちゃ寝た!!
直人は息を吐いた。
自分が息を止めていたことに、その時初めて気づいた。
返信欄にはすぐ、
> おはよう!
> 寝すぎ笑
> 今日もいてくれてありがとう
という言葉が並んだ。
最後の一つを見て、直人は指を止めた。
今日もいてくれてありがとう。
それは、たぶん直人も同じだった。
でも、美咲本人にそんなことを言う気にはなれなかった。
代わりに、
> 寝坊じゃん
と返した。
少しして、
> セーフです!!
と来た。
直人は笑った。
それから会社へ行く準備をした。
その日から、直人は少しずつ美咲へ返信するようになった。
毎回ではない。
以前ほど気軽でもない。
それでも、朝に一言。
夜に一言。
美咲から返事が来る日もあれば、来ない日もある。
やり取りだけを見れば、生前とそれほど変わらなかった。
ただ一つ違うことがあった。
直人は、美咲から返事が来るたびに、ほんの少し安心した。
今日もいる。
その感覚が、いつの間にか朝の習慣になり始めていた。
習慣に、なり始めてしまっていた。




