その少女
「はい、もう服を着ていただいて結構ですよ」
白髪混じりの医者は、眼鏡を直しながら言った。
シャツを羽織る間、医師はボードにペンを走らせる。
ボタンを留めていると、見習いの医師と目が合った。
少年——なのか、ただの童顔なのかは知らないが、そいつは顔を強張らせると、おどおどとした様子で目をそらした。
その反応のされ方は、見慣れている。
"狂犬"、"問題児"、"処分常習犯のシン"。色々肩書きがあるお蔭で、顔も名前も知らない相手から、知らずのうちに恐れられているのだ。
ただ近頃は、周りにいる人間の神経が図太いのか、あまりこういったことはなかったので、随分久しぶりに感じた。
「さて……検査、お疲れ様でした」
医師は書き終えたのか、ペンを置いてこちらを向いた。
「かすり傷一つありませんね。素晴らしい。ただ、疲労は溜まっていると思われるので、この謹慎を利用して休めてください」
全く、嫌味な奴だ。「しっかり休め」だけで済むと言うのに。
「はい、これ栄養剤です。睡眠前に服用してください。特に、質問などは大丈夫ですかね? 馴染み深いものでしょうし」
医師は、カプセルの入った瓶を差し出すと、後片付けを始めた。いつも、任務終わりに服用するそのカプセルを、脇のサイドテーブル——の上に置いている、用紙の上に避けておく。
「治療中の奴らは、どうなんだ?」
訊ねると、医師は見習いに促すように、目配せして首を動かした。
「……あ、はい! えっと……軽症者は皆、治療を終えて自室へ帰られました。中度損傷者は、皆、思っていたよりも軽度に済んでいたようなので、ご、ご安心ください!」
見習い医師は、言い切ったと言わんばかりに、安堵めいた息を吐き出した。
しかし、こちらと目が合うと、目を泳がせて顔を青くし始める。別に、嫌な顔をした覚えはないのだが。
「はぁ……〈アルティメイト〉の脳波は、正常でしたよ」
妙に重い空気になったのを感じたのか、医師は器具を詰めた鞄を抱えて言った。
「現状は、ただ眠っているだけです。医師がバイタルを監視していますので、ご安心を」
「……ご丁寧に、どうも」
「では、私たちはこれで。栄養剤、くれぐれも飲み忘れないように」
二人は軽く会釈をすると、部屋を出ていった。
遠ざかる足音が聞こえなくなったので、ベッドに背中を勢いよく預ける。あまり柔らかくはないが、寝やすい硬さのそれは、身を預けるのはちょうどよい。
サイドテーブルに目を向けると、カプセルの瓶と、その下に広がる紙。
紙は、処分通知書だ。明々後日の零時になるまで謹慎するようにと書かれている。
何度も経験しているが、好きになれない。身体を動かさないと、考えたくないことまで考え始めてしまうからだ。
本を読んで時間を潰したり、何か趣味でも作ろうかと思ったこともあったが、結局は考え事が始まるので、諦めている。
大人しくベッドに横たわり、目を瞑る。
先の苛立ちはまだ収まっていないが、任務の関係で最後の睡眠から三十時間ほど経っている。少し眠気がきている。
うつらうつらと意識が遠のいていくが、今日の一連の出来事が脳裏にちらついては、現実に引き戻されることの繰り返し。なかなか寝付けない。
『あなたはここにいるべきじゃない』
いつか言われた言葉が蘇り、その記憶を追い払おうと姿勢を乱暴に変えてみる。
しかし、うまくいかなかった。
*
――――五年も前のこと
「来週の昇格試験、順位を賭けないか?」
腕立てをしようと床に手をついたところで、そんな会話が聞こえた。声の方を見ると、訓練生の中でトップを争う数名だった。
「へえ? 随分な自信ね。いいわよ」
「楽しみだな。お前たちの悔しがる顔が、もう見えるよ」
尊大なほどに自信を漲らせている。彼らから視線を外し、大人しくウォーミングアップを続ける。
〈アポクリファ〉に来て三年が経過するが、未だ訓練生の上の中止まりだった。
首位の成績で卒業した訓練生が、現場に出た途端、使い物にならず、戦闘員を退き裏方になった例は、少なくはない。
戦闘員として生き残るため、目的を果たすためには実力が必要であるはずなのに。頭一つ抜けた存在には、ほど遠い。
自分はまだ十五歳という、訓練生の中ではどちらかといえば若輩ではあり、成績上位者は、ほぼ自分よりも年上。
しかし、年下の存在が良い成績を残していることも事実である。現状に、焦りと苛立ちが胸のなかで燻ぶり続けていた。
空気が、張り詰めたものに変わったのを感じ、顔を上げると教官達が訓練場を大股で歩いてきた。
身体を起こし、すぐ整列に加わる。
「おはよう。今日の訓練には、新しいアシスタントに加わってもらうことにした」
〈オリジン〉の一人のダグは、全員を見渡しながら続けた。
「彼女は元〈ジャスティカーズ〉の隊員だ。敵であったが、来月から正式に〈アポクリファ〉の戦闘員として加わることになった」
元〈ジャスティカーズ〉の隊員が、〈アポクリファ〉の戦闘員になることは、よくあることではないが珍しくもない。
しかし、すっと入ってきたその人物に、思わず息を詰まらせた。
白い。
白い髪。
白い肌。
青灰色の目。
一気に記憶が押し寄せ、めまいに似た感覚に陥る。
自分の一つ下の年齢の彼女は、無表情のまま、静かに訓練場を進むとダグの隣に立った。
「紹介しよう。ルナだ。彼女は前線での経験も非常に豊富だ。来週からは任務に携わっていくことになるため、期間は短いが、皆よく学ぶといい」
周りはひどく動揺しているようだった。
「あの子が? アシスタント?」
「新しい訓練生の間違いじゃないのか?」
口々にささやき、訝しげに彼女に視線を向ける。
当然の反応だ。今ここに整列する訓練生を、下の年齢から並べたらわりとすぐ相当するほどの年齢。
どう見ても、体格的に恵まれているとは言えず、華奢な少女にしか見えない。
彼女が〈アポクリファ〉の精鋭Σを追い詰め崩壊させた〈白鴉〉と呼ばれる存在である事実を知る自分でさえ、未だに信じられないのだ。
値踏みするような視線を向けられているにも関わらず、彼女は凪のように静かだった。
すっと全体を見渡すように視線を動かし、俺を通り過ぎる——ところで一瞬、止まった。
青灰色の目が、俺をしっかりと捉えた。
心臓がびくりと震えるように動いたが、すぐに視線は逸れた。
まるで、何事もなかったかのように。
(俺を、覚えてないのか?)
それとも——――覚えているが、「どうでもいい」のか。
胸に、黒い感情が渦巻いた。
「さて、今日は体術訓練だ。能力の使用が認められた場合、つまり訓練用チョーカーを点滅させるごとに減点だ。くれぐれもズルはするなよ。さて、まずは実演を見せたいが……ルナと組む者はいるか?」
ダグは、他の教官やアシスタントに向かって尋ねたが、皆それぞれに視線を逸らす。
「誰もいないのか?」
「……ダグ殿が一番ふさわしいのでは?」
「ん? 俺は進行があるから遠慮するよ」
明らかに、彼女と組むことを避けたがる空気に、違和感を覚えた。
強くなること、強さを誇ることが何よりの教官達にとって、どんな組みでも我先にとこぞって望むはずだから。
「ダグ教官。僕が相手をしても?」
訓練生の中で、最も有力な首位候補が、手を挙げた。
背は既に伸び、筋肉量もバランスよくとれた奴だったが、教官の多くが顔を青くして首を横に振った。
「ウィレム、素晴らしい心意気だな……よし、いいだろう。前に来い」
「ダグ殿? さすがにまずいです!」
他の教官達はダグを信じられないとでもいうように見つめるが、彼は呆れたように笑った。
「彼女は誰よりもプロだ。大丈夫、十分理解しているし、その技術もあるよ」
ダグは少しかがみ、彼女に耳打ちをした。
まるで、状況を面白がっているような顔だったが、彼女は静かに頷くだけだった。
二人が向かい合い、張り詰めた空気が広がる。
俺は、彼女の一挙一投足を見逃さないよう、食い入るように見つめる。
彼女は構えているというより、ただそこに立っているだけに近かった。
「始め」
ダグの言葉に、ウィレムは数秒の後に勢いよく一歩踏み込み、右手を伸ばす。正面からの掴みを狙った動きだった。
しかし、彼女の座標が突然左へずれ、相手の腕が空を切る。
白く細い指で空を切ったその腕を掴むと同時に、背後へ回り、ウィレムの膝をつま先で静かに押すと、彼はガクリと身体を崩し、前へと倒れていく。
「やめ!」
ダグの制止の合図がなった時には、ウィレムはうつ伏せに倒れ、ハンマーロックをかけられていた。
「……え? なに?」
「俺、全然追えなかった」
周囲のざわめきの中、ルナは事もなげに袖の皺を伸ばす。
ふわりと、まるで踊るかのごとく軽やかに、それも二秒も経たぬうちに成した御業に呆気にとられてしまった。
それと同時に、無表情のその涼しげな顔に、沸々と腹の底から何かが煮え出す感覚に襲われていた。
「よし、今のような調子で頼むぞ、ルナ」
ダグはかつてないほど、きらきらとした表情でルナの肩を叩く。
座り込んだままのウィレムに目を留めると、背中を叩いて立ち上がらせる。
「驚いただろう? 前線なら、もう死んでいるな。死というのがどれだけ呆気ないものか、少し分かったか?」
「ま、待ってください。もう一度やらせてください!」
「え……いや、もう実践に移りたいんだが。もう一度ルナとやったって、変わらないさ」
ウィレムの必死の訴えに、ダグは心底面倒臭そうな顔をした。
「お願いします! いくらなんでも、自分がこんな簡単に、やられるはずがない! 能力を使われたとしか思えない!」
「ルナは使ってないさ。彼女も訓練用チョーカーをつけてくれている。一度も点滅していないし、センサーも鳴らなかっただろう?」
「しかしっ!」
「あーあ。意気揚々と、順位賭けようだなんて言ってきたの誰かしら?」
トップ層の奴らが、ウィレムを煽るように笑った。
「まさか油断してたから、なんていうつもり?それこそ、戦闘員失格ではなくて?」
「首位争いは四人じゃなくて、三人の争奪戦になるかもな」
「あー、つまんねえ。蹴落とすやつが減っちまった」
ウィレムは、引き攣った笑みを浮かべると、ダグを真っすぐ見つめて言った。
「ならダグ教官、こいつら三人にもチャンス与えてやってくださいよ。次の昇格試験の首位候補です。平等にチャンスを」
「はあ、全く……いいだろう。ミラ、ハビエル、ユセフ、お前たちもルナと対峙してみるといい」
三人は、途端に目を輝かせた。しかし——
「ただし、時間をあんまり取ってやれない。だから、三対一にしよう」
「は……?」
場の空気が、凍りついた。
「あのおっさん、あんなにネジぶっ飛んだ人だったっけ?」
いつの間にか自分の隣に、褐色の肌の少年が立っていた。
あくびをしながら、ぼそりと呟くなんて、この空気の中よくできるものだ。
「いや、あの……ダグ教官。さすがに三対一は、あり得ないというか……」
「そうか……? 好戦的なミラが、随分珍しいことを言うものだ。なら、あと二人くらい追加するか?」
「いやいや……結構です。三人で」
暗に『お前たちがまとめてかかっても叶う相手ではない』と宣告されたことに、彼らは随分と苛立ったようだった。
「ねえ、君はどっちに賭ける?」
「は? 何が?」
妙に馴れ馴れしく話し掛けてくる隣を、睨みつけてやったが、全く怯まない。
いつの間にか"問題児"として、腫れ物扱いされることに慣れていたので、妙な気がする。そんな態度で自分に構おうとするなんて、多分相当変な奴だろう。
「決まってるだろ? あのプライドの高い三人が勝つか、アシスタントが勝つか。さあ、どっち?」
乗り気ではなかったが、思考を既に回転させてしまっている。
周囲の訓練生の顔色を見るに、彼女が勝つとは微塵も思っていないらしい。トップ層の三人の実力を知っているからこそ、その三人と一人では勝ち目がないと。
(だが……)
先ほどの無駄のない動きと、〈白鴉〉の記録。思い起こしたくない記憶が、線を結ぶ。
彼女は相変わらず無表情で、成り行きを静かに見守っているだけだった。
「アシスタントの一人勝ち」
これ以外、あり得ないと思った。
「ほう……それは逆張り?」
「いいや」
奴はしばらくこちらをじっと見つめていたが、白い歯を見せて笑った。
「君、ただの短気な地雷かと思ったけど、面白い奴だな」
「は?」
「俺、イーサン。イーサン・ラシッド。よろしく」
唐突に自己紹介をした変わり者は、するりと列の間を抜け、どこかへ消えた。
「では、準備はいいか?」
ダグの言葉に慌てて、俺は前で起ころうとすることに意識を向けた。
彼女はやはり、相変わらずそこに極自然に立っているだけのように見えた。
「始め」
ダグの号令が響いた。
三人が散開し、彼女を囲む。
しかし、案の定——――十秒も経たずに、三人は全員、地面に転がっていた。
ただ一人の勝者が、息一つ乱さずそこに立っていた。
———
(機密百科事典より引用)
〈チョーカー〉
武装レジスタンス組織〈アポクリファ〉が使用する通信機器。通話、動画記録、地図機能、自動頭部保護機能などを有する。
計量かつ高機能な製品であるため、定期的に整備部の点検修理が必要になる。
また、能力使用の有無を感知するための、訓練用チョーカーも製造、使用されている。
元は、〈ジャスティカーズ〉が使用する電板(板状の電子端末)の機能を、軽量装備に転用した〈アポクリファ〉の発明品である。
〈アルティメイト〉
武装レジスタンス組織〈アポクリファ〉精鋭部隊メンバーの階級名の一つ。Aggressor型能力者に与えられる。精鋭部隊の実質的な最有力者が、襲名する傾向が強い。
創設初期メンバーであったアルバロ・ペレス(1879-1916)のコードネームが元である。




