帰還
機体が高度を変える。
その振動が、座席越しに背骨を大きく揺らすと、同じように向かいの座席に横たえられた白い髪が揺れ、さらりと床へ向かってこぼれ落ちた。
戦闘機に搭乗してからというもの、空を飛んでいるというのに、岩に押しつぶされているかのような重苦しさに沈んでいる。エンジン音と、パイロット二人の、申し訳程度に会話が聞こえるだけで、誰も口を開かない。
操縦席近くから、セラフィーナはしつこいほど、ちらちらと不安げに白い髪に視線を向けては逸らす。
その様子を、その仕草をとる彼女が、なんだか別の生き物のように見えて気色悪いと思えた。腹を満たすために鹿を襲ったくせに、その死骸の前で涙を流す熊のように、歪で不気味に映るのだ。
そんな空気などつゆ知らず、ルナは眠る。
正確には、オーバーロード――能力の過度な使用負荷から引き起こされる、身体障害を起こしているのだが、こればかりは外野は何もできない。
オーバーロードは、多少の無茶をした程度で起こるものではないし、いくら戦場で能力を乱用しても、そう起こるものではない。が、今回、そうなるまで能力を使い潰したのだ。
失神する直前、目の前が見えていないようだった。一時的な五感の喪失は、症状のうちにあるが、それが戻らなかった事例もあるという。
時間が、物理的に凍結しているかのような、揺らぎさえ起こさない異質な空気を一人纏い、ルナはまぶたを閉じている。
耳の奥がつんと詰まる感覚の後、窓の外を覆っていた灰色の雲が裂け、その奥から灰青色の巨塊が姿を現した。
空中要塞〈ゼファリオン〉。
何度帰ってきても、この瞬間だけは、飲み込まれるような圧迫感がある。雲を纏いながら浮遊するその質量に、安堵と呼ぶには重すぎる何かが、腹の底にのしかかった。
巨塊の一角が、口を開いている。その周りを等間隔に青白く瞬く着陸灯をめがけて、機体が緩やかに旋回した。
発着場の口の中に滑り込むと同時に、風が止む。車輪が甲板に触れ、がくん、と身体が座席ごと跳ねた。
ルナの白い髪がまた、さらりとなだれ落ちた。
窓から見下ろすと、柳色の服の整備士と白衣の医師たちが駆けてくるのが見える。ハッチが開くと一気に、しんとしていた空間に喧騒が流れ込む。
「皆様、お帰りなさい。軽く診察しますので、それが終わってから出てください」
医師は機内に入り込むと、すぐ手前にいたセラフィーナの手首に指を当てる。
もう一人、医師がその後ろを縫うように入ってくると、横たわったルナの側に座り、手早く聴診器を当てていく。
「〈プリマス〉さん。はい、腕を出してください」
医師はそう言いながらも、既に俺の腕をとり、脈を測り始める。
精鋭部隊Σに加入にしてから既に、二年近く経過するが、未だに階級名〈プリマス〉で呼ばれるのは慣れない。
「特に異常ないですね。じゃあ、顔を上げて真っすぐ見ていてください」
小型ライトが当てられ、眩しさにぎゅっと身体が縮まるような感覚が走った。
「はい、異常なし。現状、何か違和感はありますか?」
「……特には」
「では、事後ミーティングが終了次第、本日中に精密検査を受診しに来てくださいね。機内から出てもらって結構です」
「早く出ていけ」というのが滲んでいる。
最も、ルナを運び出すのに、無関係な人間がいると邪魔なのだろう。
先に出ていった他の三人やパイロットらに続いて、降機する。
格納庫の天井から、蛍光灯が均一に白く、影という影を殺している。
戦闘機を整然と並べられたこの無機質な空間は、戦場で知らぬうちに昂ぶっていた感覚を静かに抑えるのだ。
ルナを載せたストレッチャーが、ハッチの高さに合わせて伸ばされていた脚を縮めていく。
「心肺に異常はありませんでした。脳波検査を行い、神経回路の異常を調査次第となりますので」
「そう……よろしくね」
セラフィーナに軽く頭を下げた医師は、ちょうど定位置まで脚が縮んだことを確認し、要塞内部へと押し始める。
白い手が弾みで、台からだらりと垂れ落ちた。蛍光灯が、白い横顔をさらに青白く見せ、滑るように遠ざかる。
「急患、通るぞ! 退いてくれ!」
ストレッチャーが発着場を出ていく。
しかし、そこで小さな影がストレッチャーに向かって飛び出した。
「あ、ちょっと、君!」
「駄目、近づいちゃ駄目だよ!」
白衣を着た中年の女が、張り付いた影――グレーの検査着を着た、ヘーゼル色の頭の女子の腕を掴み、引き剥がす。
「離してっ……離してよ!」
腕をもがきながら、暴れて叫ぶ。
格好からして、任務中に保護された子どもだ。
なぜその子どもが、あんなにルナに執着しているのかは分からないが、この光景はさして珍しいものではない。
「絶対に、帰ってくるって約束したのに! 起きてよお! 離して、離してえっ!」
一際大きく叫んだ次の瞬間、医師の手から離れる。
その隙を見逃さなかった子どもは、ストレッチャーへ真っすぐ駆け出した。
――いや、駆け出したわけではなかった。
弾かれたように跳び、床を蹴った反動とは明らかに釣り合わない速度で、小さな身体がストレッチャーに向かう。
検査着の裾がばたつき、裸足の足先が廊下を掠めただけで、数メートルの距離が一息に消える。
(身体強化系統の能力か)
瞬間的な加速は申し分ないが、方向も着地も制御できていないので、現状は能力としてあまり強くない。δランク、よくてもγランク相当。
ストレッチャーに辿り着く軌道だけは、正確だった。
医師たちが、突然迫ってきた子どもに驚き、ストレッチャーを庇うように遮ろうとする。
多分あの子どもは、ルナが危篤か何かと思って、喚いているのだろう。安心など、できるわけがない状況なのは正解ではあるが。
面倒だが、あれを止めてやらないといけない。
子どもの後ろに近づき、ストレッチャーに触れる寸前に、襟首を後ろから掴む。
加速の慣性が腕に伝わったが、子どもの体重など知れている。片手で事足りた。だが、足が床から浮いたまま、もがこうとする。
(言っても伝わらないなら、そうするまでだな)
右腕で一息に極めると、子どもはうめき声を上げた。
「動くな。それ以上先に進んだら、お前の首が折れると思え」
子どもは、ぴくりと肩を震わせ、もがくのをやめた。
「ちょっと、さすがに子ども相手に……」
後ろから何か言ってきたが、気にすることはない。
物心ついた子どもならともかく、それを過ぎた相手を、子どもとして見るべきではない。いつの間にか、子どもが馬鹿だと錯覚し始めるようになるからだ。
ただ、随分と脅しをかけたので、呼吸が荒く、速くなっているのが、掴んだ腕越しに伝わる。これだけ身体が竦んでいれば、もう無闇に近づいたりはしないだろう。
「治療の邪魔をするな」
念押しをした上で、ゆっくりと圧を緩め、腕を解放してやる。
少女は俯き、その場から動くつもりは、やはりなくなったようだ。
「ほら、行きましょうか。今じゃなくても、後でその機会はありますよ」
医師がそっと肩を抱き、子どもに歩くよう促し、立ち去った。
周りはほっと息をつき、それぞれの仕事へ戻っていく。
ストレッチャーは既に、廊下の奥に消えていた。
「〈プリマス〉様」
後ろに視線を向けると、ライラがこちらをじっと見ていた。
「セラフィーナ様より、すぐ、会議室へ来るようにと。事後ミーティングが始まるとのことです」
セラフィーナと同じ任務にあたることは珍しくはないので、必然的に彼女とも、それだけ顔を合わせていることになる、はずだが……あまり話したことはないので、毎回、こんな顔だったのだろうかと考えてしまう。
人の顔を覚えるのは別に苦手ではないが、覚えようと思った人間以外は覚えないのだ。
つまり、脳のどこかで、彼女を覚えるべき者として処理されていないことになり、自分でも己の薄情さには少し驚いてしまう。
とりあえず返事をしておくと、ライラはすぐ、くるりと背を向け、会議室のある方へと駆けていった。
また、医療区画の奥に目がいく。
眺めていても、何も起こらないのに、なぜ身体は無駄なことを繰り返すのか。
尚も奥へ向かうとする視線を抑えるため、会議室へと足を動かす。
発着場の付近は、外の出入りが激しいので、どこかピリピリした雰囲気が漂うものだが、そこから少し離れると、一気に空気が緩む。
その空気に当たって初めて、肩の力が緩められるのだが、今日はやけにその空気が温く、感触が気持ち悪い。
外から差し込む、朝陽のせいで、生温く感じるのかとも思ったが、違う。通りすがる人が、尊敬の眼差しを向けてくる視線のせいだ。
死者ゼロ。研究所の襲撃で、死者ゼロ。確かにそれは、驚嘆すべきことだ。分かっている。どれだけ難しいことかも。分かっているが――その空気がどうしても気色悪かった。
―――
(機密百科事典より引用)
〈オーバーロード〉
異能力者が、過度に能力を使用し、身体に異常な負荷がかかった際に引き起こされる、身体障害及び意識障害のこと。
一次的な視覚喪失、聴覚喪失、味覚嗅覚の喪失、触覚喪失、意識混濁、失神が主な症状と見られている。
発症者のうち七割は、数日後には五感や意識が回復する。残る二割は、失った感覚が回復しない症例や、そのまま心停止する症例が確認されている。
また、回復した者も、二、三日は意識不明の状態となるため、戦場で発症した場合、命取りとなる。
〈空中要塞ゼファリオン〉
武装レジスタンス組織〈アポクリファ〉が保有する、空を走る空中拠点としては最大の要塞。灰青色をしており、円形を形どる。
戦闘員の一時拠点地として使用されており、居住スペースや大規模食堂、演習場、戦闘機の発着場が完備されている。
地上に降りることはなく、移動する場合は戦闘機や輸送機などを使用する。
反撃機能、シールド機能やカモフラージュ機能が備わっており、有事の際は使用される。
〈プリマス〉
武装レジスタンス組織〈アポクリファ〉精鋭部隊メンバーの階級名の一つ。Aggressor型能力者に与えられる。
創設初期メンバーであったダグ・イェンセンのコードネームが元である。




