瓦解
「エリゾ……エリゾ!」
肩を強く揺さぶられる。
顔を上げると、わずかに眉間に皺を寄せたギャヴィンがこちらを見下ろしていた。
「エリゾ。君に、頼みがある。前に出る必要はない。君の能力で、彼らの気を逸らしてほしい。これ以上、死傷者を出すわけにはいかない」
「……なんで?」
頭は回らなかったが、口は勝手にそう答えていた。
「なんで、というのは?」
「……なんで、あの役人どもを助けるんだよ。あいつのせいで、あいつらのせいでアニタはこうなったんだ」
「つまり、自業自得だと?」
「……違うのか?」
ギャヴィンは、小さく嘆息をもらした。
「……確かに違わないね。でも、僕だって、アレを助けたくて言っているわけじゃないさ。ただ……」
すっと、こちらを目で捉えると、彼は低く訊ねてきた。
「"あいつらが、人を殺したり、傷つけたりしなくてもいいようにしたい"というのは、君の願いではなかったの?」
脳の芯を、ずしりと重い鈍器で直撃されたような激しい衝撃が突き抜ける。確かに、それは自分の願いであったけれど、今はその言葉に自分の首を絞められているような気がする。
「まあ、嘘でも心変わりでもいいけれど」
ギャヴィンはゆっくりと立ち上がると、あの黒革のケースを開いた。
「一般人の君たちを、守る義務が僕たちにはあるから。彼らを守るために僕は止めるよ。その邪魔はしないでね」
注射器を三本取り出し、ギャヴィンはくるりと回りながら消えた。
「待てよ——」
言いかけたと同時に、あの少女の背後に回り込んだ、ギャヴィンの姿が見えた。
凍りついていく音——あの、ぴしぴしと空気が軋む音が、止まった。
糸が切れるように崩れ落ちる彼女の体を、さっと横抱きにして、浮き上がった瓦礫の間をすり抜け、こちらへ走ってくる。
「ジーノ」
ギャヴィンの声に、隣でジーノの肩がピクリと動いた。
「あの少女の側についてあげてくれないか? もし、暴走がまた始まりそうだったら、この注射を肩に刺すんだ」
「う、うん……分かった」
ジーノは、あまり状況を飲み込めきれていないようだが、こくこくと頷くと、眠るあの少女の体を支えた。
ギャヴィンの目が、またこちらを向く。
——それで、君はどうするの? と言っているような目。
(分かってるよ……分かったよ)
俺の考えを読んだかのように、ギャヴィンは頷いた。
「僕じゃ、ルーカには近づけない。だから、今はアニタを抑えることに注力しよう。できるね? エリゾ」
返事の代わりに、立ち上がる。膝が笑っていたが、気にしない。
どうせ、できることなんて、これしかないんだから。
火を細く出し、太くしながら横に広げる。昼公演で毎日やっていることは、考えるよりも早くできる。炎の輪は、アニタを囲むようにして立ち上がった。
「うん、ひとまず上出来だ。そのまま、火で孤立させ続けてくれ」
声が降るとともに、ギャヴィンの体がくるりと回ると、再び気配が消えた。
「え、エリゾ……あれ」
ジーノが、あの少女を抱えながら炎の輪の方向を指した。
指先の方を辿ると、凍りついた男の体が、人の背丈三人分ほどの高さまで浮き上がっている。
氷に覆われた白い顔から、見開いた目と合う。
凍りついて、多分意識もないだろうに、助けを求めているように見える。
さっと血の気が全身から失せたと同時に、凍りついたそれは、近くに立つ油灯の柱に勢いよく叩きつけられた。
——赤黒い氷の破片が、大きく辺りに飛び散った。
えずく音が側から聞こえる。
「……つ! 見るなっ」
口元を押さえるジーノを、無理やり後ろに向かせていた。
思い出させてはいけない。それだけで頭が全て持っていかれそうだが、アニタの注意をそらさなければいけない。
前に出なくていい、と言われたが、このままでは無理だ。
そっと炎の輪に近づくと、土ぼこりが舞う中で仁王立ちする彼女が見えた。
「アニタ」
名前を呼んだが、届いてないのかこちらを向かない。
「アニタ。俺だよ、エリゾだ」
アニタの目は、地べたに横たわった役人どもの一人に釘付けのまま。息をしているかも分からないその男を、ビー玉のような目で見下ろしている。
エリゾと名乗れば、少しはこっちに関心を惹きつけられていたのに。
「……ごめん、アニタ」
振り乱れた彼女の髪に、炎を上がらせた。
アニタの咆哮が、空に響く。
怯えるように、燃え上がる髪を叩く。
(……俺は、何をしているんだろう)
なんで、守るはずのアニタを、攻撃しているんだろう。
消えかけた榛色の目と、ばちりと音を立てたように合う。しかし、今までで見たことがないほどの、ぞっとするほどの強い目がこちらを睨んだ。
(俺、殺されるのか)
守るはずだったのに、髪を二度も燃やして。薬に頼って、寿命を縮めて。
もう、アニタには何も届かないんだ。
『摂氏六九〇度を確認。頭部保護を強化します』
妙に無機質で無感情な声が、すぐ側で聞こえた。
次の瞬間、肩を強く何かに掴まれ、そのまま投げ飛ばされるように後ろへ体が大きく下がる。
「前に出るな、と言わなかったっけ?」
空気が揺らめくのと同時に、片眉を上げて見下ろすギャヴィンの顔が出てきた。
「出るなとは言っていない。前に出る必要はない、だっただろ?」
「それを前置きに置くということは、出るな、という意味だと。君なら理解してくれると思ったんだけどな」
軽い口ぶりで小さく笑ったが、ギャヴィンは一息つくと一気に顔を曇らせた。
「君の決死の刺激のお蔭で、彼女に二度、打ちこむことは出来たよ」
「……二回も打ったのか? いつの間に」
「うん。でも、そういうことだよ……何にも効果はない。君のところに来た来客の言うとおりだ」
聞きたくない。その先の言葉は、聞きたくない。
けれど、ギャヴィンは無情に言葉を続けた。
「奇跡は起きてくれなかった。彼女は今宵、ここで死ぬ」
手足の先が、ぴりぴりと痺れる。
覚悟はしていたはずだった。あの日、あのヘクターという男から貰った薬を使った時も、してなかったわけじゃない。
あの無愛想な医者たちからも、言われていたから覚悟していたはずだ。
本当の覚悟というのは、わずかな希望を持つことも、許されないのか?
「エリゾ」
声が、背後から聞こえた。
ジーノではない。振り向く前に誰だか分かったが、今一番聞きたくない声だった。
聞き間違いを望みにかけたが、やはり、後ろに立っていたのはマルコだった。
「……なんで、ここに」
寝間着の上に上着を引っ掛けただけで、靴も履いていない。息が上がりきって、顔が紙のように白い。
「マルコさんっ! 駄目です、戻って——」
後ろから、あのジュリという少女が転がるように追いついてくる。しかし、それよりも前に、立ち尽くすマルコの視線がすっと、俺の後ろへと動いた。
「姉ちゃん」
マルコの目が、確実に宙に姉を捉え、姉が今、やっていることを確実に捉えていく。
「……人が、姉ちゃんが、人を」
両手で、自分の頭を押さえながら、マルコの体はぐらりと傾く。
「マルコさん、戻りましょう。危険です」
ジュリが支えたが、マルコはそれをやんわりと手で制した。
「ねえ、エリゾ————僕は、人を殺したことが、あるよね?」
心臓が、破裂しそうになるほど、大きく打った。
否定しなければいけないのに、言葉は空気になるだけで音にならない。
「昨日、エリゾは言ってくれたよね。何も心配いらない、俺がなんとかするからって」
榛色の目がゆっくりと、俺を捉える。
「すごく聞き覚えがあったんだ。でも、いつどこで聞いたか分からなくて、ずっと考えてて……そしたら、夢が教えてくれたよ」
マルコは、そこで一度言葉を切った。
話し方が、ひどく落ち着いている。それがかえって、じわじわと俺の首を絞めているように感じてしまう。
「取り立ての夢。結婚を控えている男の人が怯えて逃げて、それを僕が追いかけて。その人は、悲鳴を上げて、橋から川に落ちた」
マルコは、自分の手のひらを見た。
「……でも、これ。夢じゃないんだよね」
頷くことも、首を振ることもできない。
マルコのその手で、ダニエレを押したわけではない。触れてもいない。
それでも確かに、マルコと俺の存在が背を押したのは事実なのだ。
「ダニエレ・ロムアルドっていう人の名前、知らないって言ったら、あの人たち、すごくびっくりしてた……そりゃそうだよね。僕が殺した人を、僕が覚えてなかったからびっくりするよね」
風が吹き、火の粉が飛んでくる。
一瞬、それに照らされたマルコの顔がはっきりと見えたが、ひどく落ち着いた顔をしている。
「僕が人を殺したこと……僕らが、人を殺してること。なんで、エリゾだけ覚えてるの」
口が、勝手に開いた。
「薬だ」
言った瞬間、腹の底から何かが抜け落ちた。
ずっと握り込んでいたものが、指の間からこぼれていく感覚がした。
「忘れる薬。人が死んだ晩のことだけ、まるごと抜ける。一年半、ずっと。お前たちに」
止めればよかった。
だが、口は勝手に動き続けた。
「全員に打った。熱を出したとか、寝てたとか、そういうことにして、信じさせてた」
マルコは、しばらく黙っていた。震える手を、もう片方の手で押さえているが、押さえきれずに、両手が震えている。
それから、ゆっくりと息を吸った。
「……そっか」
青白い顔のまま、こちらを見た。その落ち着きが、恐ろしい。
どうして、と叫ばれて、殴られてしまったほうが楽に違いない。その静けさが、何よりもきつく感じる。
「エリゾはずっと、僕たちを守ってくれてたんだね」
その言葉は、俺の喉を通ることはなかった。
守ってくれた。
今、自分が人を殺したと知ったばかりで、姉が人を殺すのを見ているところで。
それでも、自分を、納得させようとして、そう言ったのだ。
飲み込めなかった言葉の代わりに、笑いが漏れた。
「……エリゾ?」
困惑した顔のマルコに向かって俺の口は勝手に動いた。
「守った? 俺が?」
顔の筋肉が、勝手に動いている。
笑っているのだろう。自分では分からない。
「アニタを殺したの、俺なのに?」
マルコの震えが、止まった。
「何を言ってるの? 今、あそこで生きてるよ」
マルコの崩れそうな足場を、蹴り飛ばしているような気分だ。
人殺しの記憶に打ちのめされているのに、追い打ちをかけていると分かっているのに、一度開いた口は止まろうとしない。
「お前が撃たれた日。あの日の暴走で止めた薬は、止められるけど打てば最後の薬だったんだよ。俺はそれを分かって打ったんだ。アニタにやられるのが恐くて打った」
マルコの目は、まばたきすることなく、こちらを呆然と見つめる。さっきまであった何かが、明らかに静かに抜け落ちていくのが分かった。
「もう、助からない。何をやっても、もう効かない」
乾いた笑いだけが出てくる。
「ごめんな。こんな人殺しが、兄貴ヅラして」
もう、兄代わりなんてできない。
しかし、なぜか虚しさと同時に、爽快感を覚えている自分がいて、それが気色悪いと思った。




