悪夢
「エリゾ、ギャヴィン! こっち!」
ジーノが手を振りながら飛び跳ねているのが見えた。
少し足早になってしまったが、大きな声を抑えさせなければいけない。
「おい、声抑えろよ」
「あ、ごめん」
両手で口を押さえたが、悪びれた様子もなく、にこりと笑いやがる。
「先導をありがとう、ジーノ」
「え、なんで俺の名前知ってるの?」
ジーノは目を輝かせて、ギャヴィンを見上げる。知らないはずの人間が自分の名前知っているなんて、気味悪がるのが正解だというのに。なぜ、こんな喜べるのか。
「色んな人の注目の的だからね、君は」
「いやあ、照れるなあ。へへっ」
わざとらしく咳払いをすると、ジーノはようやく、緩んだ顔をひき戻した。
「それにしても、よくここまで人払いができたね。どうやったの?」
ギャヴィンの問いに、ジーノはまた得意げに顔を上げる。
「簡単だよ。荷車の車輪を叩いたり、外したりして動けなくしたのと。あとオルゴールのネジを全部回してきたのさ」
「オルゴール?」
「そう! 特別公演の来場者特典のオルゴール! 本当は今の団長の前の団長が、支援者にお礼で渡してたけど、なんか見た目がいいから好評で、続けてるんだって。それの在庫を全部、ねじ回してうるさくしておいた」
脳裏に、ちまちまとオルゴールを止めようとてんやわんやする団員の姿が目に浮かび、思わず吹き出しそうになる。背にかかる体温と重さや、右手を握る手があるお蔭でなんとか耐えたが。
車を止めているという裏門へは、敷地の外周を回る道を通る必要がある。
テントの並びから離れると、人があまり歩かないせいで足元の草が深くなる。
背中のルーカは、規則正しく息をしている。
決して短い距離を歩いているわけではない上、片手で支えているのは少し辛い。しかし、アニタの手は緩まる隙はないし、今さら誰かに代わってもらうほどでもない。このまま二人を連れていけば問題ないだろう。
「アニタ、楽しそうだね。久しぶりに外に出たから、嬉しいのかな」
ジーノは彼女に笑いかける。アニタは、意味が分かっているのか分からないのか、少し首を傾げたがにこにこと笑い返す。
「私ね、私、マルコに会うの」
ジーノは、アニタの唐突な話に特に驚くことなく、相槌を打った。
「マルコはね、私の弟なの。ちょっと気が弱いけど、優しいの。だから、私が守ってあげなきゃいけないの」
「うん、そうだね。マルコは優しい、良い奴だよな」
「マルコは、すぐに我慢しちゃうから、よく見てあげないと。だから、私ね、だから、だから……だから……」
アニタの言葉が、詰まるとともに、握っている手がぴくぴくと痙攣し始めた。
「アニタ……?」
痙攣する手を止めたくて、思わず強く握ったが、震えは止まらない。
唇を震わせながら凝視する先を辿ると、門の内側で止まっている黒塗りの車がある。
仕立ての良い外套。白いものが混じった髪。上機嫌で葉巻をくわえた、恰幅のいい男。時折やってくる、常連の役人の一人だ。団長と懇意にしていて、いつものように五人ほど連れて練り歩いている。
喉の奥で空気が擦れるような、ヒュッ、ヒュッという鋭く短い、浅い呼気音が、アニタの身体から無理やり鳴り始める。
————『アニタ、ねえ、どうしたの? アニタ』
二年前のあの日——アニタが初めて暴走した日の、ガイアの声が脳裏に過る。
昼公演の最中、出番をもう少しに控えて、客席を覗き込んだアニタは、突然発作を起こした。今のように。
(そうだ……あの日も、あの男は客席に————)
詳しいことは知らないが、眼鏡男や団長が、あの男と話す内容から、能力者を融通している張本人だろうという推測は以前からあった。
俺は違うが、カルーセル座に引き取られる奴は、研究所と呼ばれる施設からやって来た奴がほとんど。
変わった力を持つ子どもが集められ、研究されるという施設。あまり、良い思い出がないらしく、皆、研究所のことはあまり喋りたがらない。
アニタは、強い力を持っているせいで、随分酷い目に遭っていたとマルコは言う。起きていても、悪夢に魘され続けるほどに————
足元の草が、ゆっくりと浮き上がったのが見えた。
一本、二本ではない。
視界の中の草が、一斉に、地面から剥がれるように持ち上がっていく。草だけではなく、小石、木の枝。落ちていた空き瓶も、土も、全てが浮き上がる。
ボロボロと崩れ落ち、凍りついていきながら。
ゆっくりと動くその世界を、ぼんやりとただ見つめることしかできない。
「エリゾっ!」
鋭い怒鳴り声とともに、勢いよく身体を跳ね飛ばされる。
つい先までゆっくり流れていた世界が、突然目にも止まらぬ速さで進み出す。
喉に一気に空気が入り込み、肺が大きく膨らんだが、それと同時に地面から噴き出す土ぼこりが、目や口に入り込み、咽せ返る。
「エリゾ、大丈夫かっ?」
上から、ギャヴィンの声が降りてくる。今までのような余裕じみた、あのむかつく声音ではなく、緊張の滲む鋭い声だった。
さっき、自分を呼んだ声が誰のものか分からなかったが、ギャヴィンだったらしい。
返事をしようと息を吸うが、咽るばかりで何も答えられない。
「分かった、もう喋らなくていい。すまない」
少しひんやりとした手が、俺の頭を優しく叩いた。
すぐ隣には口元を腕で覆うジーノが、目を見開いて呆然としている。
どうやら俺とジーノは、ギャヴィンの下に庇われているようだった。
しかしなぜ、地面に押し付けられた体の、どこにも重さがないのか。
背中に、ルーカの体温がない。右手の中に、アニタの手もない。
さっきまで、両方あったはずなのに。なんで……
「なんだよ、これ……」
ジーノが小さく呻きながら呟いた。
ギャヴィンのため息が一つ聞こえると、小さく無機質な音が鳴った。
「ミゲル。聞こえるか?」
『……ああ。聞こえるぞ。暴走か?』
「その通り。アニタ・マリーニにつられて、ルーカ・セッラ、あの少女が暴走状態に入った……最悪だよ」
嘘だ、嘘だ……
さっきまで、アニタは笑っていたじゃないか。
久しぶりの外で、楽しそうだったじゃないか。
あの少女も、きっと、新鮮な空気が吸えて少しは良い刺激になってただろうに。
ルーカは、今日は眠ってばっかりだったけど、安らかな顔をしていたじゃないか。
なんで、なんで……
————ただ、次に暴走したときは、殺すほかなくなるぞ
アニタの力で、あの役人の男の体が、地面に叩きつけられている。何度も、何度も。
手足が妙な方向へ折れて、もう息もしていないだろうに。
————覚醒失敗者は、お前たちが抱えられるような、生易しい存在じゃないんだよ
あの少女の力で、辺りが凍りついていく。もうすぐ五月なのに。手足が壊死しそうなほどに冷たくなっていく。
————どちらにせよ、地獄を見るんだよ
地面に生えた草も、小枝も、空き瓶も、そして車も、急激に錆びてボロボロに砕け、あの役人のお付きたちの体もボロボロに崩れていく。
頭の中で、あのストロベリーブロンドの男が、小馬鹿にした顔でにやりと笑った。
————ほら、俺の正解だっただろう? だからあの時、お前は黙って見ていればよかったのに




